仏教が難しく感じる最大の理由は、言葉です。中身は身近な話なのに、用語が漢字だらけで入口が高い。
そこで、このブログで繰り返し使ってきた言葉を現代語に翻訳してまとめました。各項目に詳しい記事へのリンクを付けてあります。気になる語だけ拾い読みしてください。
■ 因果まわり——世界のしくみ
因果(いんが)=原因と結果。まいた種が生える、それだけのこと。罰ではありません。このブログの式 果y=因a×縁x は、これを書き直したものです。→ 数式完全ガイド / ほんとうはこわい因果の道理
数の自然(すうのじねん)=『大無量寿経』の一句。善悪報応し、禍福あひ承けて、身みづからこれに当る。たれも代るものなし。数の自然なり。仏教には裁く神がいません。それでも報いがあるのは、誰かが決めているからではなくおのずからそうなる仕組みだからです。
縁(えん)=結果を生むための、外から来る条件。自分では選べない部分。種があっても、水と光がなければ芽は出ません。
縁起(えんぎ)=すべては関係の中でだけ成り立っている。独立した実体は存在しません。だから「誰にも頼らない自立」は原理的に不可能で、依存先を分散させることが現実的な自立になります。
増上縁(ぞうじょうえん)=他人の力を引き出す側の縁。太陽は種になり代われないが、太陽がなければ種は芽を出さない。
自業自得(じごうじとく)=「ざまあみろ」ではありません。自らの業は自らが得る、というだけの記述。悪口が自分に返るのも、これです。
意業(いごう)=心で思っただけのことも、業になる。身業・口業と並ぶ三業の一つで、法律と決定的に違う点です。頭の中の独り言は、無意識のうちに続けている種まきでした。
宿業(しゅくごう)=生まれつき配られていた初期値。現代語なら「才能」や「気質」に近い。→ 宿業と強みの話
苦集滅道(くじゅうめつどう)=仏教の中心にある四諦(したい)を四文字に縮めた形。苦諦(苦がある)・集諦(苦には集まってきた原因がある)・滅諦(原因が滅すれば苦も滅する)・道諦(そこへ行く道がある)。読み返してみてください——「幸福」という語が一度も出てきません。西洋の幸福論が「幸福とは何か→どう手に入れるか」と進むのに対し、四諦は「苦とは何か→どこから来たか→止まるか→どう止めるか」と進みます。扱っているのは獲得ではなく消滅。
■ 苦しみまわり——なぜしんどいのか
心所(しんじょ)/随煩悩(ずいぼんのう)=心にくっついて働くもの/根本煩悩から枝分かれして出るもの。唯識の五位百法では心所を五十一に分けます。遍行5(作意・触・受・想・思)別境5(欲・勝解・念・定・慧)善11根本煩悩6(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)随煩悩20不定4(悔・睡眠・尋・伺)。善は11、煩悩系は26で倍以上。しかも根本6に対し枝が20。圧巻なのは怒りが「忿(かっとなる)」と「恨(根に持つ)」の別項目になっていること。⚠️他人に札を貼る表ではありません。自分の心を見るための目盛りです。
不浄観(ふじょうかん)=肉体が朽ちていく過程を観じる修行。美しさを憎むためではなく、美しさも留まらないと確認するため。今きれいな人も、そうでない人も、同じ土俵にいます。
老少不定(ろうしょうふじょう)=老いた者が先に、若い者が後に死ぬとは決まっていない。蓮如上人『白骨の御文章』の「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」が有名です。
無常(むじょう)=すべては変わり続ける。悲観ではなく観測事実です。悪いことも続かない、が同時に含まれます。→ 人間万事塞翁が馬
有為(うい)/無為(むい)=有為は因と縁によって作られたもの(現象・出来事)、無為は作られたのではないもの。「諸行無常」の「諸行」は原語をたどると有為とほぼ同じ語で、正確には「作られたものは移り変わる」という意味です。すべてが無常なのではなく、因果の道理そのものは移り変わりません。
苦悩の根元(くのうのこんげん)=仏教が立てる人生の目的は「苦しいことを無くす」ではなく、苦しみを生み出している根っこを断ち切ること。その根っこが無明の闇です。目的が「生きること」の外に立つので、「生きるために生きる」という循環に落ちません。
生死(しょうじ)=「せいし」ではなく「しょうじ」。生まれ変わり死に変わりを繰り返す迷いの世界そのものを指します。禅堂の板に刻まれた生死事大(しょうじじだい)は「今日を大切に」ではなく、この生死を離れることが一大事だという意味でした。
無有代者(むうたいしゃ)=『仏説無量寿経』の独生独死独去独来(どくしょうどくし どっこどくらい)に続く一句。その身がみずから受けるのであって、代わってくれる者は無い。孤独とは話し相手がいないことではなく、代わってくれる者がいないことだ、という指摘です。
一切皆苦(いっさいかいく)=すべては苦である。ただし「すべてが痛い」ではありません。原語ドゥッカの語感は「思い通りにならない」。悲観ではなく、観測結果です。
渇愛(かつあい)/善法欲(ぜんぽうよく)=苦の原因とされる欲が渇愛(原語タンハー=渇き)。一方で良くなろうとする欲=善法欲は肯定されます。仏教は欲を全部消せとは言っていません。見分け方は「選択肢が増えるか、減るか」。
愛執(あいしゅう)/十二因縁(じゅうにいんねん)=自分のほうへ引き寄せて離すまいとする愛が愛執。十二因縁では愛 → 取 → 有 → 生 → 老死と連なります。愛(渇愛)が起これば、それを掴みにいく取が生まれ、そういう生き方として固まる有となって、また生まれ、また老いて死ぬ。つまり愛は輪廻の出口ではなく、輪廻を回しているエンジンのほうです。⚠️ただし相手を自分より上に置く愛は慈悲と呼ばれ、まったく別の扱いを受けます——同じ「愛」でも、向きが逆。
方便(ほうべん)=『法華経』の三車火宅の譬えが出どころ。火事の家から子を出すため、父が外に車があると告げた話です。「うそも方便」は誤用で、方便が成り立つのは①自分に得がなく②誰も傷つかないときだけ。自分の得が一滴でも混じれば、ただの妄語です。
化城喩(けじょうゆ)=『法華経』化城喩品第七の譬え。法華七喩のひとつ。宝のある場所(宝処)を目指す一行が疲れて引き返そうとしたとき、導師が神通力で立派な街を出して休ませ、回復したところで消した話。休憩は本物で、仮だったのは「ここが終点だ」というラベルだけという点が要点です。
衣裏繋珠(えりけいじゅ)=『法華経』五百弟子受記品第八の譬え。法華七喩の五番目。貧しい男が酔って寝ている間に、親友が衣の裏へ無価の宝珠を縫いつけた。男は気づかぬまま他国をさまよい、困窮したまま暮らす。縫われたのは眠っている間、場所は自分から見えない衣の裏、そして知らせる人がいなかった——自分で気づくことが構造上できない、という点が要点です。
一水四見(いっすいしけん)=唯識の論書(瑜伽師地論など)に説かれる見方。同じ一つの水を、天人は瑠璃、人間は水、魚は住処、餓鬼は膿血として見る、というもの。四つとも、その者にとっては事実で、どこかに「本当の水」があるわけではありません。見え方の違いは対象ではなく見る側のaにある——六道が死後の場所ではなく心の状態だとされる根拠がここです。ただし「みんな違ってみんないい」ではなく、見え方には本人の苦しさが付いてきます。
長者窮子(ちょうじゃぐうじ)=『法華経』信解品第四の譬え。法華七喩の二番目。五十余年さまよった我が子を見つけた長者が、名乗ろうとして子を恐怖で気絶させてしまう話。父はそこで方針を変え、すぐには名乗らず、低い仕事から働かせて長い年月をかけて育て、最後に全財産を相続させました。黙秘は嘘ではない。ただし父は必ず最後に名乗った——配慮と欺瞞の線引きがここにあります。
良医治子(ろういじし)=『法華経』如来寿量品第十六の譬え。法華七喩の七番目。毒を飲んだ我が子に医者の父が薬を差し出すと、正気を保っていた子はすぐ飲んで治り、本心を失った子は飲まなかった。父は薬を置いたまま他国へ去り、使いに「父は亡くなった」と伝えさせて我に返らせます。生きているのに死んだと言ったのに、経典はこれを虚妄としません。ただし①自分に得がない②誰も傷つかない③正攻法を先に試して失敗④相手が正気を失っている⑤必ず戻って本当を告げる、の五つが揃って成立しています。
三草二木(さんそうにもく)=『法華経』薬草喩品第五の譬え。法華七喩の三番目。三草は上草・中草・下草、二木は大樹・小樹。同じ雨が平等に降りそそぎ、草木はそれぞれの大きさにしたがって潤い、花を咲かせ、実を結びます。仏教が平等と呼んだのは結果ではなく降り方で、潤ったかどうかは全員同じ、違うのは丈だけという点が要点です。ただし他人の丈を決める物差しには使えません。
戒禁取見(かいごんじゅけん)=五見(五つの誤った見方)のひとつ。『倶舎論』では「非因計因、非道計道」——因でないものを因と計(はか)り、道でないものを道と計る——と定義されます。噛み砕くと効きもしないやり方を、これが効くのだと思い込むこと。牛や犬のまねをすれば天に生まれられると信じた例が伝わります。怠けているのではなく、熱心なのに向ける先が違う——努力の量ではなく見方の誤りに分類される点が要点です。
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)=唯識が立てた三つの見方の一つ目。自分が勝手に思い描いただけで、実際にはそのとおりに存在しないもの。残る二つは依他起性(えたきしょう)=さまざまな条件で成り立っているもの、円成実性(えんじょうじつしょう)=あるがままの完全なすがた。有名なのが縄と蛇のたとえで、暗がりで縄を蛇と見て飛び上がっても蛇はどこにもいません。※上の三性(善・悪・無記)とは別物です。
五蓋(ごがい)=心にかぶさって、ものを見えなくする五つのふた。蓋は文字どおりふたで、煩悩の別名でもあります。貪欲蓋(むやみに欲しがる)、瞋恚蓋(腹を立てる)、惛沈睡眠蓋(心が重く沈む)、掉挙悪作蓋(じょうこおさがい)(心が高ぶって落ち着かない)、疑蓋(自分が信じられなくなる)の五つ。取り越し苦労で眠れない状態は四つ目にあたります。「頭が悪い」ではなく「ふたがかぶさっている」=能力ではなく状態の問題と見るのが要点です。
随眠(ずいめん)=眠りながら、随(つ)いてくるもの。煩悩はふだん眠っていて、縁が来た瞬間に起き上がります。『倶舎論』では見惑88+修惑10を九十八随眠と数えます。怖いのは、消えたように見えても種のまま残っている点。逆に言えば縁を自分で設置すれば、毎日でも起こせてしまう——臥薪嘗胆はそれを二十年続けた例です。
見取見(けんじゅけん)=自分の見解だけを正しいとし、ほかはすべて誤りだとすること。『倶舎論』が挙げる五見(有身見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見)の四つ目。要点は「間違った見解を持つこと」ではなく「自分の見解を最上のものとして握ること」を指す点です。漁夫の利の鷸と蚌は、どちらの見立ても筋が通っていました。正しい見立てを握ったまま、両方とも捕まっています。
六塵(ろくじん)/六根(ろっこん)=私たちが受け取る六種類の対象が六塵で、色・声・香・味・触・法。受け取る側の目・耳・鼻・舌・身・意が六根です。両者が触れ合って六識(「聞こえた」等の認識)が生まれ、あわせて十八界。対象を「塵」と呼ぶのは、心を汚し煩悩を起こさせるから。音は声塵(しょうじん)です。四面楚歌で項羽に届いていたのは声塵だけで、「楚は落ちた」という結論は聞いた側が足したものでした。
不退転(ふたいてん)/正定聚(しょうじょうじゅ)=不退転は「もう後戻りしない位」、正定聚は「必ず仏になると定まった仲間」。親鸞聖人はこれを現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)と示し、浄土へ生まれてからではなく、この娑婆にいるあいだに定まるとしました。要点は自分で握っていないこと——背水の陣のように自分で退路を断つ場合、断ち続けなければいつでも戻れますが、こちらは握力が切れても位は変わりません。
平生業成(へいぜいごうじょう)=大事なことは臨終の間際ではなく、生きている平生に決まっているという浄土真宗の立場。蓮如上人が『御文章』で「一念発起平生業成」と示しました。往生は死ぬ間際に何とかするものではなく、生きているうちに定まる。そして定まったあとの念仏は仏恩報謝——求めるためではなく、すでにいただいたことへのお礼になります。終わりの日に慌てて取り返す道が、そもそも無いという点が要点です。
四摂法(ししょうぼう)/同事(どうじ)=菩薩が人と関わるときの四つのやり方。布施(与える)、愛語(いたわりのある言葉)、利行(りぎょう)(相手の利益になる行い)、同事(相手と同じ姿になり、同じ場に立つ)の四つ。同事は「相手の側へ降りていく」対等で、相手を自分の側へ引き上げるのとは向きが逆です。四つとも先に出す側に立っており、受け取りに行く項目は一つもありません。
一日不作一日不食(いちじつなさざれば、いちじつくらわず)=唐の百丈懐海禅師(七四九〜八一四)の言葉。一日はたらかなかった日は、その日は食べない。高齢の禅師を心配した弟子が畑道具を隠したところ、禅師は食事をとらず、理由を問われてこう答えました。要点は弟子を一言も責めず、同じ理屈を自分にだけ適用したこと。「働かざる者食うべからず」とは意味が違い、他人を測る物差しにした時点で別のものになります。
四生(ししょう)/化生(けしょう)=仏教が立てる四つの生まれ方。胎生(母の胎内から。人間もここ)、卵生(卵から)、湿生(湿ったところから)、そして化生——何もないところから、よりどころなしに忽然と生まれる。天人や地獄の衆生がこれにあたります。要点は、化生も「業により」生まれるとされること。よりどころは無くても、業のほうはあります。なお浄土に往生する生まれ方の一つも化生とされます。
五濁(ごじょく)=時代が下るにつれて増していく五つの濁り。『阿弥陀経』『法華経』には五濁悪世と出てきます。劫濁(時代の乱れ。戦乱・飢饉・疫病)、見濁(思想の乱れ)、煩悩濁(貪・瞋・痴が盛んになる)、衆生濁(人の資質が下がる)、命濁(寿命が短くなる)の五つ。要点は、仏教が「誰が悪いか」の前に「どういう時代か」を置く枠を持っていること。ただし縁を見るのは仕組みを直すためで、免罪のためではありません。
摂受(しょうじゅ)/折伏(しゃくぶく)=人を導くときの二つのやり方。摂受は相手の間違いをいったん受け入れ、穏やかに説得しながら正しい方へ導くこと。折伏は相手の間違いを厳しく責めて、その場で破ること。摂受は母の愛に、折伏は父のいましめにたとえられます。『勝鬘経』は「折伏すべき者は折伏し、摂受すべき者は摂受せよ」と説き、どちらか一方を正解にしていません。
浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)/業鏡(ごうきょう)=閻魔王の庁にあって、死んだ人の生前の行いを映し出す鏡。映るのは実際にやった行いだけでなく、心の中できざしたこと(意業)、さらにその行いで周りの人がどんな目に遭ったかまで。隠し事はできないとされます。要点は「順位」ではなく「行い」を映すこと——順位は他人しだいで動きますが、行いは自分のものです。
三施(さんせ)=布施の三種類。財施(ざいせ)=お金や物を与えること、法施(ほうせ)=教えや智慧を与えること、無畏施(むいせ)=恐れを取り除き、安心を与えること。仏教は伝統的に法施を最上としてきました(財は使えば消えるが、智慧は減らないため)。要点は無畏施が「誰かが怖い側を引き受ける」ことで成立しやすい点——恐れは消えるのではなく、移ります。
追善(ついぜん)=死んだ人のために、生きている人が善を修すこと。その功徳を故人へ回し向けます(追善供養)。要点は死者本人にはできないこと——亡くなった人はもう新しく善を積めないので、生きている側がやります。そしてその善行は、やった本人にも戻ってきます。夢幻能の亡霊が旅の僧に「跡を弔ってください」と頼むしかないのは、この構造のためです。
十六観(じゅうろっかん)/水想観(すいそうかん)=『観無量寿経』が説く十六の観想法。第一・日想観は沈む夕日を見つめて心に焼き付け、極楽が西にあることを想う。第二・水想観は澄んだ水を思い描き、次にその水を氷に変え、その氷を瑠璃の大地と想う。要点は目に見えているものが目的ではなく足場だという点。ただし浄土真宗は観想を修行として勧めません——経も最後は称名へ落ちます。
不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)=親鸞聖人『正信偈』の一句。前句と合わせて「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」。噛み砕くと「煩悩を断ち切らないまま、涅槃を得る」。ふつう仏道は煩悩を消してから悟りへ進むとされますが、真宗はその順番を取らず、煩悩を持ったまま救われると言い切ります。ただし「煩悩のまま何をしてもいい」ではありません——緩んだのは出発の条件だけで、因果の道理は一ミリも緩んでいません。
勧進(かんじん)=寺や仏像を作るために、人々に寄付をすすめて回ること。その趣旨を書いた巻物が勧進帳です。歌舞伎『勧進帳』では、弁慶が焼失した東大寺の再建のためと名乗り、持っていない勧進帳の代わりに白紙の巻物を読み上げました。仏の名を使う書き物を偽ったという点で、ただの通行証よりも重い場面です。
刹那(せつな)/刹那滅(せつなめつ)=時間のいちばん小さな単位。サンスクリットの音写です。仏教はきちんと数えていて、一昼夜が六百四十八万刹那=一刹那はおよそ七十五分の一秒、指を一回弾く間に六十から六十五刹那とされます。そして刹那滅=あらゆるものは刹那ごとに生じては滅している、という見方。心もその連続だとされます。
五種法師(ごしゅほっし)=『法華経』法師品に説く、教えを保ち広める五つのやり方。受持(聞いて信じ受け入れ、忘れずに保つ)、読(経文を見て読む)、誦(見ずに暗記して唱える)、解説(意味を理解して人に説く)、書写(経を書き写す)の五つ。受持が土台で、あとの四つはそれを行動として続ける方法です。要点は「書き写す」が正式に一項目として数えられていること——その目的は広く長く伝えるためとされます。
言語道断(ごんごどうだん)=いまは「もってのほか」の意味で使われますが、本来はまったく逆で、「言葉にできないほど深い」という仏教語でした。言語の道が断たれる——言葉でたどれる範囲の、その先。仏教はそこを空性とも呼びます。読みも「げんご」ではなく「ごんご」(仏教語は呉音)。もとは褒め言葉に近い語が、時代とともに反転しました。
繋縛(けばく)=縛られて、離れられなくなっている状態。煩悩の別名の一つで、迷いの世界から出られなくさせるはたらきを指します。要点は、仏教が見ているのが持ち物の量ではなく「離れられるかどうか」だという点。棚が空でも、離れられなければ繋縛です。逆に、たくさん持っていても、いつでも手放せるなら縛られていません。
仮和合(けわごう)=いくつかの要素が集まって、一時的に・仮に成り立っている状態。人も五蘊(身体・感受・イメージ・意志・認識)が仮に集まっているだけで、これを五蘊仮和合といいます。我として執着するような実体はありません。しかも一度きりではなく、瞬間ごとに集まっては散り、また集まります。要するに縁起と同じことを、別の言い方で示した語です。
死随念(しずいねん)=死を、繰り返し思うこと。心に念じる十の対象——十随念——の一つで、パーリ語ではマラナサティ。驚くのは具体性で、寿命をまっとうする死から突然の死まで、あらゆる可能性を思い描くとされます。受精した瞬間から人生は死に向かって進んでいるとも。陰気に聞こえますが目的は逆で、死を思うと欲が小さくなり、怒りも悪意も減る——今この生を充実させるための修行として置かれています。
執心(しゅうしん)=離れがたく思い続ける心。恐ろしいのは、捨てるという行為すら執着の対象になることです。鴨長明は『方丈記』の結びで、質素な庵を愛している自分自身を「これも罪ではないか」と裁きました。持たない自分が好き、も執心です。
執着(しゅうじゃく)=変わるものを、変わるなと握ること。苦しみの正体はここです。
慳貪(けんどん)=もの惜しみ+むさぼり。仏教はケチと浪費を、同じ煩悩の裏表として扱いました。どちらもお金に心を握られているからです。
名聞利養(みょうもんりよう)=名聞=名声を求める心、利養=利益を求める心。人を動かす二大エンジンとして、昔から警戒されてきました。豊臣秀吉は両方を極め、死後は神にまで祀られながら、崩れた大仏に弓を引いたと伝わります。
煩悩(ぼんのう)=欲・怒り・妬みなど、心をかき乱すはたらき。消す対象というより、標準装備として扱うのが浄土仏教です。
二の矢(にのや)=起きた出来事(一の矢)に、自分で足す怒りや後悔。一の矢は他人が射ますが、二の矢はいつも自分が自分に射ています。
六道(ろくどう)=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天。死後の場所ではなく、今日の心の状態として読むのがこのブログの流儀です。満たされない渇きが餓鬼、他人と比べる勝負心が修羅。→ 『熔ける』を六道で読む
■ 生き方まわり——どうすればいいのか
修羅(しゅら)=六道の一つ、争いの世界。恐ろしいのは怒りではなく「勝っても終わらない」こと。年収で勝てば次は肩書き——比較の土俵にゴールはありません。
三種の長者=財の長者・身の長者・心の長者。財産・健康・心の順で、財だけでは長者と呼ばないという段階分けです。
六度万行(ろくどまんぎょう)=菩薩の六つの実践。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧。それぞれに反対語があり、10年後の果報が正反対に分かれます。
知恩・感恩・報恩(ちおん・かんおん・ほうおん)=気づく・感じる・行動する。頭・心・体の三段です。反対は忘恩・背恩・逆恩(忘れる・背く・害する)。
四恩(しおん)=父母・すべての人・社会・仏法から受けている恩。どれも返済不能なので、報恩は「返済」ではなく次へ送る生き方になります。
布施(ふせ)=与えること。お金は一円も要りません。笑顔も席も、優しい言葉も布施です(無財の七施)。
捨身(しゃしん)=自分の身を投げ出して他を救うこと。『法華経』の薬王菩薩が身を焼いて供養した話などが代表で、宮沢賢治「蠍の火」もこの系譜です。ただし浄土真宗は捨身を勧めません。凡夫にはできないと見るからで、それは「できなかった人を責めないため」でもあります。
三輪清浄(さんりんしょうじょう)=布施が本当に成り立つ条件。施者(与える人)・受者(受け取る人)・施物(与えたもの)の三つすべてに執着がないこと。「してあげたことを忘れる」とは記憶力の話ではなく、この三つを握り続けないことでした。
愛語(あいご)=やさしい言葉をかけること。道元禅師いわく「愛語よく回天の力あり」——天を回すほどの力がある。
忍辱(にんにく)=我慢とは別物。我慢は怒りにフタをすること(いつか飛ぶ)。忍辱は火に燃料を渡さないこと(そもそも溜まらない)。
中道(ちゅうどう)=極端を避けること。張りすぎた琴の弦は切れ、緩すぎた弦は鳴らない。→ 欲の引き際と、お釈迦様の中道
遊戯三昧(ゆげざんまい)=とらわれず自在に、それでいて没入している境地。仏教は「遊び」を修行の対義語にしていません。守るものがない人ほど、自然に遊べます。
托鉢(たくはつ)=財産を持たず、食を人からいただく実践。恵んでもらう行為ではなく、布施の機会を相手に差し出す行為と考えます。だから僧は礼を言わない作法もあります。
精進(しょうじん)=気合ではなく、歩みを止めないこと。お坊さんはやる気ではなく、仕組みで動いています。
放下著(ほうげじゃく)=捨ててしまえ。ただし「捨てられる自分」という自慢も捨てよ、という二段構え。
摂受(しょうじゅ)・折伏(しゃくぶく)=人を導く二つの道。折伏は誤りを正面から破る厳しい道、摂受はいったん受け入れて穏やかに向き直らせる道です。『勝鬘経』は相手を見て使い分けよと説きます。自分自身に対しても、同じことが言えます。
羅刹女(らせつにょ)=羅刹は人を食うとされる鬼で、その女性形。『法華経』では十羅刹女が、教えを実践する者を守ると誓います。鬼子母神と同じく、食う者が守る者になる型です。
無慚無愧(むざんむき)=慚は自分に対して恥じること、愧は他人に対して恥じること。その二つが無い状態です。仏教は慚愧を高く置き、恥じる心が働かないと同じことを何度でもやれると見ます。悪意のことではなく、思い出しもしない状態を指します。
愛見の大悲(あいけんのだいひ)=愛着や執着から生まれた慈悲で、仏教は手放すべきものとして扱います。凡夫の慈悲は衆生縁の慈悲と呼ばれ、近い相手に限られます。我が子を思う気持ちが強いほど、他人の子を敵視しやすくなる——愛情がそのまま排除に変わる危うさです。
一闡提(いっせんだい)=かつて成仏する見込みがないとされた者を指した語。ただし後に『涅槃経』などで「一闡提にも仏性がある」「一闡提も成仏する」と説かれ、仏教は「救われない者」というカテゴリのほうを自分で取り下げました。
逆謗(ぎゃくほう)/抑止門(よくしもん)=五逆(最も重い五つの罪)と謗法(教えをそしること)を合わせた語。第十八願は末尾に「唯除五逆誹謗正法」と添えますが、親鸞聖人はこれを除外ではなく警告と読みました。善導大師の抑止門——やる前の人を止めるための一文で、すでに犯した人を締め出すためではない——という解釈です。
回心(えしん)=これまでの心の向きが、ひっくり返ること。過去の行いが消えるわけではありませんが、「そこが違ったのだ」と認めた一点は、新しい因になります。
大妄語(だいもうご)=妄語(嘘)の中でも飛び抜けて重いとされる嘘で、悟っていないのに悟ったと言うこと/到達していない場所を、到達したと語ること。出家者には教団を追われるほどの重罪とされます。人の一生の向きを変えてしまうからです。
称譏(しょうき)=八風のうちの二つで、称は面と向かってほめられること、譏はけなされること。仏教は八風に動かされるなと説きますが、「ほめられるな」とは言っていません。風が吹くのは止められず、止められるのは揺れるほうです。
善友(ぜんゆう)=善知識とほぼ同じで、正しい方向へ導いてくれる友。「善き友を持つことは修行の半ばか」と問われたお釈迦様が「半ばではない、すべてである」と答えたと伝えられます。
飢渇(けかつ)=餓鬼道の苦しみ。恐ろしいのは食べ物が無いことではなく、食べても満たされないところにあります(口に入れた瞬間に火に変わる、とも描かれます)。手に入れた瞬間に消えるものを、手に入れ続けようとする状態です。
恩愛(おんない)=親子や夫婦のあいだにある深い情。仏教はこれを美しいものとして褒めるのではなく、断ちがたいものとして扱います。出家とは恩愛を断つことでもありました。情は重い、軽くはならないという前提です。
波旬(はじゅん)/天魔(てんま)/四魔(しま)=波旬はお釈迦様の成道を妨げに来たとされる魔。注目すべきはやり方で、いきなり襲わず、先に誘っています。魔は、脅す前にまず甘くする。また仏教は魔を四魔に分け、四つのうち三つは自分の内側にあるとします(外から来るのは天魔だけ)。ただしこれを「騙される側が悪い」と読むのは誤りです。
断見(だんけん)/常見(じょうけん)=断見は「死ねば何もかも断ち切れて無になる」、常見は「変わらない魂がずっと続く」という見方。仏教はこの両方を退けます。どちらも極端だとして、真ん中を行きます。
雪山偈(せっせんげ)=『大般涅槃経』の四句「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」。いろは歌は、この意訳とされます。「有為の奥山今日越えて」が生滅滅已にあたります。
悲智円満(ひちえんまん)/小慈悲(しょうじひ)=慈悲と智慧が欠けずにそろっている状態が悲智円満で、仏のありよう。両者は車の両輪にたとえられます。対して人間の慈悲は小慈悲と呼ばれ、不平等・長続きしない・見通しがないという限界があります。
相依相待(そうえそうたい)=あらゆるものは、他との関係の中でしか成り立たないということ。「長い」は「短い」がなければ意味を持たず、「親」は「子」がいて初めて親になります。単独で存在するものは一つもない——縁起の基本です。
陀羅尼(だらに)/真言(しんごん)=お経の中で意味を訳さず音のまま残された一節。意味を理解して味わう言葉ではなく、はたらきとして受け取る言葉なので訳しません。
覆蔵(ふくぞう)=自分の過ちを覆い隠しておくこと。仏教は過ちそのものより、これを重く見ます。隠したものは直せず、隠しきるために次の嘘が要るからです。
代受苦(だいじゅく)=誰かの苦しみを、代わりに引き受けること。菩薩のはたらきを表す語です。ただし他人に求めるものではなく、本人が選んだときにだけ成り立ちます。
四大(しだい)=地・水・火・風。仏教は体をこの四要素が一時的に集まったものと見ます。ばらけたら消えるのではなく、それぞれの要素に還る——灰は地に還った姿です。
善巧方便(ぜんぎょうほうべん)=方便は目的へ導く手立て、善巧は巧みで行き届いていること。相手に合わせて、届く形に変えて渡す工夫を指します。
時節到来(じせつとうらい)=条件が揃うべき時が来ること。裏を返せば揃うまではどれだけ押しても動かないということ。種をまいた翌日に収穫はできず、待つ期間は無駄ではなく必要工程です。
無間地獄(むけんじごく)=八熱地獄の最下層。「無間」は間が無いこと=苦しみに切れ目がないという意味で、終わらないことそのものが罰の中身になっています。
一微塵(いちみじん)=『華厳経』の見方で、一つの微塵の中に十方の世界が含まれているとされます。どんなに小さなものにも世界のすべてが映り込んでいる=大きさと値打ちは別という考え方です。
無情説法(むじょうせっぽう)=無情は心を持たないもの(石・水・草木・道具)、対して人や動物は有情。心なきものが、ただそこにあることで道理を示しているという見方です。
貪著(とんじゃく)=貪は欲しがること、著はくっついて離れないこと。欲しがるだけでなく、握って離せなくなった状態を指します。
四食(しじき)/触食(そくじき)=阿含経が説く、命をつないでいる四種類の「食べ物」。段食(口から入れるふつうの食事)、触食(見る・聞く・触れることで生まれる心地よさ)、思食(希望や意思)、識食(心そのもののはたらき)の四つ。刺激そのものが栄養になっているという見方で、通知が鳴る・数字が増えるといった快さもここに入ります。
報怨行(ほうおんぎょう)=達磨大師の『二入四行論』にある四つの実践の第一。苦しい目に遭ったとき、過去の自分の行いが返ってきたと受け取って、相手を怨まないこと。これは自分に向けて使う技術で、他人に強制した瞬間に別のものになります。
貧者の一灯(ひんじゃのいっとう)=王が捧げた万灯は風で消えたのに、貧しい老女がなけなしで供えた一灯だけは消えなかったという説話。仏教は量では測らず、どんな心で出したかを見ます。
廻向(えこう)=「廻」は回すこと、「向」は向けること。自分が受け取ったものを、自分のところで止めずに他へ回し向けることです。法事で「故人に廻向する」と言うのも、自分の積んだものを別の方向へ回す意味。
鬼子母神(きしもじん)/訶梨帝母(かりていも)=もとは他人の幼児を食い殺していた夜叉で、自身も500人の子の母。お釈迦様は討伐せず、末子を隠して同じ痛みを味わわせ、改心させました。「子が可愛いことに、人間と鬼神のあいだに違いはない」。改心後は子どもの守護神になります。
檀波羅蜜(だんばらみつ)=檀は布施、波羅蜜は「彼岸に到る」で、布施が完成した状態。六波羅蜜の第一。ただ与えれば完成するのではなく、三輪清浄が条件です。受け取る側が数えはじめると、布施は取引に変わります。
地蔵菩薩/無仏(むぶつ)の世=お釈迦様の入滅後、次の仏である弥勒が現れるまで、この世に仏はいません。その期間に六道を回って衆生を導くのが地蔵菩薩です。誓いは「地獄未だ空ならずんば、誓って成仏せじ」——地獄が空になるまで自分は仏にならない=自分の救いをいちばん後ろに回した菩薩。お堂ではなく道端に立っているのは、それが持ち場だからです。
六地蔵(ろくじぞう)=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道それぞれに一体ずつ配された地蔵。6体並んでいるのは、6つの世界の担当者だからです。
業不亡(ごうふもう)=やった行いは、時間が経っても消えないということ。「仮使百千劫を経るとも、所作の業は亡びず。因縁 会遇の時、果報 還って自ら受く」(『大宝積経』など)。善い行いをしても、悪い行いが相殺されるわけではありません。それぞれの因が、それぞれの果を結びます。
天人五衰(てんにんごすい)=天人でさえ、寿命が尽きるときには五つの衰えの相があらわれるという教え。天上界にも終わりがあるので、そこは目指す場所ではない、という文脈で説かれます。
棄老国縁(きろうこくえん)=『雑宝蔵経』巻一の説話で、姥捨山の原型。老人を捨てよという国法のもと、捨てられずに隠された老人が隣国の難題を解いて国を救い、王は棄老の法そのものを廃止します。「賢い老人は残せ」ではなく「捨てる制度が間違っていた」で終わるのが要点です。
七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)/自浄其意(じじょうごい)=仏教を一言でまとめたとされる偈。諸悪莫作・衆善奉行(悪をなすな、善を行え)が有名ですが、3句目に「自浄其意」——自らその意(こころ)を浄くせよ——が続きます。行いの一覧表で終わらず、行いを出している元栓まで指しているのが要点です。
三帰依(さんきえ)/三宝(さんぼう)=仏・法・僧の三つを拠り所にすると宣言すること。仏教徒になる最初の一歩がこれで、教えを覚えるより先に拠り所を三つ決めます。拠り所が一つだと、折れたときに全部倒れるからです。
戒(かい)と律(りつ)=日本語では戒律と一語で言いますが、別のものです。律は集団のルールで、破れば罰があります。戒は自分で立てる誓いで、罰はありません。「〜してはならない」ではなく「〜しないようにしよう」。罰がないからこそ、見ていない場所でも効きます。
本願招喚の勅命(ほんがんしょうかんのちょくめい)=親鸞聖人が『教行信証』で南無阿弥陀仏の「南無」を説明した言葉。招は招く、喚は大声で呼ぶ、勅命は取り消せない命令。南無阿弥陀仏とは、私が仏を願う声ではなく、仏がこちらを喚んでいる声だ、という読み方です。
自信教人信(じしんきょうにんしん)=善導大師『往生礼讃』の一句「自信教人信 難中転更難」。自ら信じ、そのうえで人に教えて信じさせる。難しいことの中で、さらに難しいという意味です。自信が先、教人信が後という語順が要点で、順番の逆はありません。
晨朝(じんじょう)=一日を六つに区切って勤める六時礼讃のうち、夜明けの時間帯。寺では今も朝いちばんのお勤めを晨朝勤行と呼び、門徒の家庭ではお朝事(おあさじ)といいました。朝がいちばん大事だから朝に座る、という考え方です。
知恩報徳(ちおんほうとく)=恩を知り、その恩に報いること。「まず知る、それから報いる」の順番が要点で、気づいていない恩には報いようがありません。
一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)=『華厳経』の言葉で「一切は唯(ただ)心の造るところ」。同経に「三界虚妄、但是一心作」ともあります。心が作るとされるのは「三界=迷いの世界」のほうで、事実そのものではありません。心を変えれば現実が変わる、という意味ではない点が要注意です。
三性(さんしょう)/無記(むき)=行いを善・悪・無記の三つに仕分ける見方。無記は善とも悪とも記録できない行いで、良い果報も悪い果報も生みません。さらに無覆無記(道を覆わない、意図した休息など)と有覆無記(何も生まないうえに本当にやりたいことを覆い隠す)に分かれます。
等流果(とうるか)=因と同じ性質の果が、流れ続けること。同じ行いは同じ結果を生み、繰り返すほど勢いを増します。同じ出来事が何度も起きるときは、1回ずつではなく流れとして見るのがこの語の使いどころです。
顛倒(てんどう)=ものごとを逆さまに見ること。凡夫がやりがちな逆さまを四つに絞ったものを四顛倒といい、常・楽・我・浄——移り変わるものを変わらないと見、苦であるものを楽と見る——を指します。
他因自果(たいんじか)=他人がまいた種の実を、自分が受け取るという見方。仏教はこれを認めず、自因自果——種と実は同じ人の中でつながる——を説きます。縄を恨む泥棒——盗んで縛られた人が縄だけを恨む——のたとえで説かれます。
七聖財(しちしょうざい)=聖なる財産、七つ。信・戒・聞・慚・愧・捨・慧を指し、『宝積経』巻四十二に、これを守らないので「極めて貧しい」と名づけるとあります。七つのどこにも現金が入っておらず、しかも「捨」——手放すこと——が財産に数えられています。貧しさの基準が、通帳の残高ではないわけです。
五邪命(ごじゃみょう)=してはいけない稼ぎ方、五つ。『大智度論』巻十九に、詐現異相・自説功徳・占相吉凶・高声現威・説所得利以動人心と挙げられます。反対語は八正道の正命。五つとも「自分を大きく見せて対価を取る」という一点でつながっていて、五番目の「あちらで、これだけもらったと言って人の心を動かす」は、いまの振込画面のスクリーンショットそのものです。
福田(ふくでん)=福が実る田。施しをする相手を、田にたとえた語です。田に種をまけば、まいた量より多く実る——仏教は増えること自体を否定せず、増える場所に名前まで付けました。投資との違いは置き先で、投資は自分の口座に、福田は他人のところに置きます。ただし利回りで測り始めると、それは布施ではなくなります。
不与取(ふよしゅ)=与えられていないものを、取ること。五戒では不偸盗——盗むな——と訳されますが、原語はこちらで、力ずくの強奪だけでなくだますこと・偽ることによって受け取る行為も含みます。本当のことを知っていたら渡さなかったのなら、それは与えられていない。だから、同意があっても成立していないことがあります。
応量器(おうりょうき)=その人の量に応じた、器。禅宗の修行僧が使う個人の食器で、入れ子に重ねた五枚ひと組が基本とされます(曹洞宗での呼び方。臨済宗では持鉢)。各自の体調などに応じた分だけを盛るので、食べ残しが出ません。我慢しているのではなく、器のほうが先に量を決めているわけです。
雨安居(うあんご)/安居(あんご)=雨の季節に、動かないでいる期間。もとの語ヴァルシャは「雨期」そのもので、お釈迦様の在世中から、陰暦四月十六日から七月十五日までの九十日間、僧は各地をめぐるのをやめて一か所にとどまりました。理由が意外で、雨期は草木が茂って虫や小動物が活発になるため、歩き回ると無用に踏み殺してしまうから。「出ない」の理由が、自分の都合ではなく他者への配慮でした。のちに夏安居(げあんご)とも。
不請の友(ふしょうのとも)=頼まれていないのに、友になる人。『無量寿経』巻上に菩薩の徳として「もろもろの庶類のために不請の友となる」とあり、続けて「群生を荷負して、これを重担とす」——人々を背負って自分の重荷とする、と説かれます。負担を引き受けるのは行く側だと最初から書いてあるわけです。「困ったら言ってね」が届かないのは、いちばん来てほしい人ほど呼べないから。
自灯明(じとうみょう)/法灯明(ほうとうみょう)=自らを明かりとし、法を明かりとせよ。お釈迦様が亡くなる前に説かれたとされ、『雑阿含経』『大般涅槃経』などに出ます。要は「他を依処とするな」。もとの語ディーパは「灯明」とも「洲(す)=流れの中の足場」とも訳せます。⚠️「自分を信じろ」ではありません。必ず法灯明とセットで、自分は明かりを持つ側であって明かりそのものではない、という意味です。
怨親平等(おんしんびょうどう)=怨む相手も、親しい相手も、同じに扱うこと。大きな慈悲を根にして、自分に害をなす者と愛を示す者を差別しません。四〜五世紀ごろの漢訳仏教で語として固まり、日本では『御遺告』(835年)に用例があります。実例は円覚寺——元寇のあと北条時宗が建て、蒙古や高麗の兵まで区別せず供養しました。⚠️「争いはそのうち収まる」ではなく、誰かが先に区別をやめる側へ回ったときだけ起きます。
無所得(むしょとく)=得るところが無い。『般若心経』の「無智亦無得。以無所得故」——智もなく、得もなし、得るところ無きがゆえに——から。続く句が肝で、「心無罣礙(しんむけいげ)」=心にひっかかりが無い。ひっかかりを取ってから得るのではなく、得ようとするのをやめるから消えます。⚠️「何も求めるな」ではありません。求めないのではなく、握らない。
夢幻泡影(むげんほうよう)=夢・まぼろし・あわ・かげ。『金剛般若経』最後の四句「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観」から。六つも並ぶのは一つでは言い足りないからで、夢幻=中身が無い、泡影=それ自体では立てない、露電=消えるのが速い。⚠️対象は有為法(縁で作られたもの)に限られ、命令は「応作如是観」=このように観よ。無視の許可ではありません。
他化自在天(たけじざいてん)/化楽天(けらくてん)=欲界の六欲天のうち、第六天と第五天。化楽天は自分で楽しみを作り出して味わい、他化自在天は他の者が作り出したものを自在に自分の楽として享受します。そして上に置かれているのは他化自在天のほう——仏教は「供給されるほうがより快い」と見ています。ただしそこは第六天魔王の住処。満たし続ければ誰も出口を探さないからです。⚠️快楽が偽物なのではありません。本物なのに、尽きるのが問題です。
乾慧(けんね)=乾いた智慧。真理を観ようとする智慧はあっても、まだ禅定の水にうるおされていない状態を指します。『大品般若経』などに説かれる三乗共十地の一番目=乾慧地。知識としては立っているのに、腹が立った瞬間に一つも出てこない——あの状態です。⚠️否定の語ではありません。十地の一番目は誰もが通る出発点で、他人を置く場所ではありません。辞典の三慧(聞慧・思慧・修慧)と同じ順番。
共業(ぐうごう)/不共業(ふぐうごう)=多くの者に共通する果報を引く行い/その人だけに返る果報を引く行い。共業が作るのは器世間(きせけん)——みんなが一緒に住んでいる入れもののほうです。行いが、次の人の条件になります。⚠️ただし無著『大乗阿毘達磨集論』では、共業のはたらきは増上縁であって異熟(直接の果報)ではないとされます。つまり共業は縁xを作るのであって、因aではない。「みんながやっているから」の言い訳には使えません。
威儀(いいぎ)/威儀即仏法(いいぎそくぶっぽう)=立ち居振る舞い。道元禅師の「威儀即仏法、作法是宗旨」——振る舞いがそのまま仏法であり、作法がそのまま宗旨である。曹洞宗の根本とされ、坐禅だけでなく掃除・洗濯・食事・睡眠まで、行住坐臥のすべてが含まれます。⚠️アランの「笑うから幸福なのだ」とは一歩違います——アランは形を幸福への手段としますが、道元は形がすでにそれだと言います。
忘己利他(もうこりた)=己を忘れて、他を利すること。伝教大師最澄の『山家学生式(さんげがくしょうしき)』——比叡山で学ぶ者のための規則書——に「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」とあります。ラッセルの「自分への関心が過ぎることが不幸の原因」という処方とよく似ていますが、向いている先が違います。ラッセルは自分の幸福のため、忘己利他は慈悲のため。目的地が自分の外にあります。
断惑証理(だんなくしょうり)=惑(煩悩)を断って、理(さとり)を証すること。自力の修行でそこへ至る道を聖道門といいます。⚠️ここが真宗との分かれ目——法然上人は末法においては断惑証理はもはや起こらないと判定し、「未断惑の凡夫」(煩悩を断っていない普通の人)が迷いを出られる道として浄土門を立てました。ショーペンハウアーの「欲を減らせ」はこの断惑証理と同じ構造で、真宗が手放したほうの道筋です。
随処作主(ずいしょさしゅ)=その場その場で、主人公となること。『臨済録』に「随処に主となれば、立処(りっしょ)皆真なり」——自分のいる場所が、そのまま真実の場になるとあります。ヒルティが幸福の源泉の一番目に「仕事」を置いたのに対し、随処には場所の条件がついていません。病室でも台所でも失業中の部屋でも、そこが随処です。⚠️自分に向ける語。苦しい職場の人に言うと、環境を変えなくていい理由を外から与えることになります。
戒定慧(かいじょうえ)/三学(さんがく)=仏道修行の三段。戒学(悪を止め善を修し、規律ある生活を保つ)・定学(心を一つにして散らさない)・慧学(煩悩が離れ、真実を知る智慧が得られる)。並列ではなく順番があります——「心を摂むるを戒と為す。戒によって定を生じ、定によって慧を発す」。戒が先で、逆からは行けません。アリストテレスが「徳は習慣によって身につく」と言い、ギリシア語で倫理(エーティカ)の語源が習慣(エートス)であることと、同じ形です。
賢善精進(けんぜんしょうじん)=賢く、善く、はげんでいること。字面は褒め言葉ですが、親鸞聖人は『愚禿悲歎述懐和讃』でこう使いました。「外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おおきゆえ」——外に見せる姿は賢く善くはげんでいるように「現じて」いる、内は貪りと怒りと偽りだらけなのに。中身ではなく外面の話として書かれています。同じ和讃に「虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらなし」「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ」とも。悪人正機を伝えた人が、自分を「善人の顔をした者」として書いた——だから「悪人」は他人に貼るラベルではありません。
造悪無碍(ぞうあくむげ)=悪を造っても、往生のさまたげにならない。だから悪を慎む必要はない——という考え。極端になると「悪を造るほど救われる」にまで行きます。浄土の教えの代表的な異義で、後の世の堕落ではありません——法然上人が『七箇条制誡』で戒め、親鸞聖人も関東の門弟への手紙で嘆いておられます。『歎異抄』が「かみそり聖教」(大人が使えば役に立つが幼児が持てば危ない)と呼ばれ、蓮如上人が「無宿善の機においては、左右なくこれを許すべからざるものなり」と封をしたのは、この切り傷のためでした。
踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)=喜びが高まって、思わず躍り上がること。歓喜踊躍とも。『無量寿経』などに出ます。親鸞聖人は『教行信証』で歓喜を「身心の悦予の貌」とされ、歓喜信受が心に満ちる喜びなら、踊躍歓喜は体に出る喜びと分けられます。『歎異抄』第九条で唯円が「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候」と打ち明け、親鸞聖人が「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」と返された、あの場面の語。喜べないからこそ往生は一定、さらに喜べていたらそのほうが怪しいという二重の逆転が続きます。
業縁(ごうえん)=行いを引き起こす条件。過去の業と、いま巡ってきた縁を合わせた言い方です。『歎異抄』第十三条「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし」——条件がそろえば人は何でもする。だから「わが心の善くて、殺さぬにはあらず」。していないのは善いからではなく、来ていないからです。⚠️歯止め=同章が自分で防いでいます。「薬あればとて毒を好むべからず」。やってしまった側の言い訳に使えば、それは邪執。自分に向ける語です。
一文不通(いちもんふつう)=一文字も読めないこと。『歎異抄』第十二条の核心語で、「一文不通にして経釈の行く路も知らざらん人の、称えやすからんための名号におわしますゆえに、易行という」——一文字も読めない人に届くように作ってあるから易行。だから「学問を旨とするは聖道門なり、難行と名づく」。⚠️「学ぶな」ではありません。禁じられたのは学問を往生の条件にすることだけ。入口に条件(縁x)を足すほど、届く人は減ります。
一紙半銭(いっしはんせん)=紙一枚、半銭。ごくわずかなもののたとえ。『歎異抄』第十八条「いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心欠けなばその詮なし。一紙半銭も仏法の方に入れずとも、他力に心をなげて信心深くば、それこそ願の本意にて候わめ」。施した額の多少で大小の仏になるという異義に対し、唯円は「不可説なり、不可説なり。比興のことなり」と二度くり返して退けました。⚠️寄進の否定ではありません。外されたのは大小という軸そのものです。
雑行(ぞうぎょう)/正行(しょうぎょう)=念仏以外のさまざまな行/浄土往生のための正しい行。法然『選択本願念仏集』に「さまざまなつとめを投げ捨てて、ひとすじのつとめを選べ」。正行は五種(読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養)で、うち称名が本願の行=正定業、他は助業。清めの塩も、日取りも、方角も、厄年も、お守りも、まとめて雑行の棚に入ります——悪いからではなく、念仏以外に頼っている一点で。だから真宗は友引の葬儀も気にしません。
荼毘(だび)/仏舎利(ぶっしゃり)=火葬すること/お釈迦様のご遺骨。荼毘はパーリ語ジャーペーティなどの音写で、意味はそのまま「燃やす」。火葬を指す語そのものが仏教から来ています。仏舎利は『大般涅槃経』などによれば八つに分けられ、バラモンのドーナが調停するまで七大国が軍勢を差し向けたと伝わります。さらに細かく分けられ各地にストゥーパが建った。仏教の始まりに、すでに分骨があります。
三身(さんじん)=仏の三つのありかた。法身(色も形もない真如そのもの。人間には知りようがない)・報身(法身をさとった、人格を持つ存在)・応身(この世に姿として現れた存在)。当てはめるとお釈迦さまは応身、阿弥陀仏は報身——上下ではなく、身の種類が違います。阿弥陀仏は法蔵菩薩が願を立て行を積み、その報いとして仏になられたので報身。⚠️三身は本来一仏に具わるという見方(三身即一)もあり、宗派で扱いに幅があります。知りようがないものが名と形を取ってこちらまで降りてきている——三身とは、その降り方の話でもあります。
本地垂迹(ほんじすいじゃく)/神祇不軽侮(じんぎふきょうぶ)=本地(本来のあり方)が垂迹(迹を垂れる=この世に現れる)という説。平安期に整えられ、日本の神々は仏がこの国の人々に合わせて姿を変えて現れたものとされました(大日如来=天照大神など)。奈良期には神宮寺——神様を仏教で救済するための寺——が神社の境内に建ちます。切り離したのは明治元年(1868)の神仏分離令で、続く廃仏毀釈で寺は大打撃を受けました。「神道と仏教は別」という前提は百五十年ほどの歴史しかありません。真宗は習合せず神祇不拝を立てますが、対になる神祇不軽侮があり、蓮如上人は「諸神諸菩薩をもおろそかにすべからず、これみな南無阿弥陀仏の六字のうちにこもれるがゆへなり」と書かれました。拝まないが、軽んじない。
■ 心と智慧まわり——仏教の見取り図
慈悲(じひ)=抜苦与楽。苦を抜き(悲)、楽を与える(慈)。苦を抜くには原因を見抜く智慧が要るので、仏の優しさは甘くありません。
和光同塵(わこうどうじん)/三十三応現身(さんじゅうさんおうげんしん)=和光同塵は光を和らげて塵に同ずること。仏や菩薩が本来の智慧を隠し、近寄りやすい姿で現れる。三十三応現身は観音菩薩が相手に応じて33の姿に変わること(『法華経』普門品)。姿を変えるのが応現身、向きを変えるのが八方美人です。
三縁の慈悲(さんえんのじひ)=慈悲の三段階。①衆生縁=相手を見て起こる凡夫の慈悲(小悲)、②法縁=無我をさとった聖者の慈悲(中悲)、③無縁=仏だけが持つ、対象を選ぶことのない慈悲(大悲)。「無縁」は縁が無いのではなく、縁に依らないという意味です。
無我(むが)=「私」という独立した司令塔はいない。あるのは条件の集まり(五蘊)だけ。→ ナヴァルから無我へ
両忘(りょうぼう)=禅語。善悪・優劣・勝ち負けなど相対する二つを、どちらも忘れること。「どっちつかず」ではありません。どっちつかずは枠の中で踏ん張っている状態、両忘は枠そのものを降りる状態です。「評価しないぞ」と決めるのも、まだ評価です。
戯論(けろん)=原語パパンチャ。「概念増殖」とも訳されます。言葉と理屈で世界を組み立てるうちに、それ自体が勝手に増えていく心の働き。好き嫌いから出る愛論と、偏った見方から出る見論があります。仏典は「戯論は病の元」と言い切り、『中論』は因縁(縁起)を説いて戯論を滅すとします。
我他彼此(がたぴし)=我と他、彼と此。自分とあの人、こちらとあちらを切り分けて対立させる心。建て付けの悪い戸がきしむ「ガタピシ」の語源とも言われます。差別とは、我他彼此が制度になったものです。
薫習(くんじゅう)=香りが衣に移るように、行いが心の奥に染みついていくこと。繰り返した行為が種となって蓄えられます。現代語の「脳の回路ができる」に近い仏教語です。
習気(じっけ)=薫習によって染みついた、残り香のほうのくせ。いわゆる性格です。因ではなく果なので、行いを変えれば上書きできます。雑な人が雑さを気にした瞬間から、几帳面が始まります。
不放逸(ふほういつ)=『法句経』に章の名として立てられた語。原語パマーダ(放逸)には「酔い」の意味があり、不放逸とは酔わずに気づいている状態。単なる「怠けるな」ではなく、解脱の道とされます。誰も見ていない場面での一回が、ここに入ります。
阿頼耶識(あらやしき)=心の最深層。行いが種として貯蔵される蔵。現代語の「潜在意識」に一番近い仏教語です。
八正道(はっしょうどう)=苦を滅する八つの実践(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)。ただし、このブログでは「救いの条件」としては扱いません。理由は
念(ねん)=口で唱えることではなく、心に思い浮かべること。念仏の原義は「仏を心に思い描く」でした。「あの人ならどうするか」と考える技法と、構造は同じです。
三宝(さんぼう)/僧伽(サンガ)=仏教が宝とする三つ、仏・法・僧。「僧」はお坊さん個人ではなく共に道を歩む人々の集まりのこと。分裂させることは五逆罪に数えられます。
善知識(ぜんぢしき)=正しい道へ導く友。お釈迦様は「善き友を持つことは道の半ばではなく、すべてである」と説かれました。生きている人に限らず、経典や歴史上の人物でも構いません。
四依(しえ)/依法不依人(えほうふえにん)=『涅槃経』の、教えを受け取るときの4基準。筆頭が「法に依りて人に依らざれ」——誰が言ったかではなく、何を言っているかで判断せよ。その人がいなくなったら崩れる組織は、最初から法ではなく人に依っています。カルト対策としてそのまま使えます。
随喜(ずいき)=他人の幸福を、我がことのように喜ぶ心。四無量心(慈悲喜捨)の「喜」。嫉妬の正反対で、訓練して育てる能力とされます。
有り難い(ありがたい)=有ることが、難しい。感謝の反対語は「当たり前」でした。
転悪成善(てんあくじょうぜん)=悪を転じて善と成す。「滅」ではなく「転」——消すのではなく、向きを変えることです。氷は消えず、溶けて水になります。
他力(たりき)=他人任せではありません。自分の力で届く範囲の外から、はたらきかけられていること。「全部やる」をあきらめた先に出てくるものです。
たのむ(憑む)=蓮如上人『御文章』の「弥陀をたのめ」の「たのむ」。現代語の依頼の「頼む」ではなく、あてにする「憑む」です。頼むには見返りの計算がありますが、憑むにはありません。差し出すものも要求するものもなく、ただよりどころにしてまかせきること。
自力のはからい(じりきのはからい)=自分の計算で何とかしようとする心。真宗が捨てよと言うのはこれで、努力そのものではありません。『老人と海』のサンチャゴが「あの子がいてくれたら」と漏らしながら毎回「俺は一人だ」と打ち消すのが、その姿です。頑張ったまま、受け取っていい。
親鸞一人がため(しんらんいちにんがため)=『歎異抄』後序の一節。弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。本願はすべての人に向けられたものなのに、それを「私一人のためだった」と受け取った言葉です。自分が選ばれたという意味ではありません——続きは「そくばくの業をもちける身にてありけるを」、つまりこれほど業の深い者を、と驚いているのです。みな凡夫で例外はなく、違うのは他人事にせず名指しで受け取ったかどうかだけ。
厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)=源信『往生要集』冒頭の八文字。この穢れた世を厭い離れ、浄土を欣び求めよ。徳川家康が旗印にしたことで有名ですが、家康は「穢土=戦乱/浄土=平和」と、来世の話をこの世の政治目標に読み替えています。本来は二階の言葉です。
凡夫(ぼんぶ)/煩悩具足の凡夫=煩悩をまるごと備えた、ふつうの人間。他人を指す言葉としては使いません。親鸞聖人が凡夫と言うとき、指しているのは自分です。
悪人正機(あくにんしょうき)=「悪いことをした人ほど救われる」ではありません。ここでの善人=自力で救われようとする人、悪人=自力ではどうにもならないと知った人。両手が空いている人にしか渡せないという話です。
聴聞(ちょうもん)=教えを、何度でも聞くこと。一度で終わらないのが前提。二度目は「これはあの時の話だ」と答え合わせが起きるので、深く入ります。
懺悔(さんげ)/慚愧(ざんぎ)=仏教では「ざんげ」ではなく「さんげ」。決定的なのは仏の前でするものだという点で、相手が人間だと告白は相手を傷つけますが、仏の前なら誰も傷つきません。慚は自分に、愧は他人に恥じること。『涅槃経』に「慚愧なきものは名づけて人とせず」とあります。
聞思修(もんししゅ)/三慧(さんえ)=智慧の三段階。聞慧=聞いて得る、思慧=考えて得る、修慧=実践して体で得る。知っていることと、できることは別だと仏教が最初から分けていた、ということです。
我所(がしょ)=「わたしのもの」という思い。仏教は我(が)——わたし——と我所——わたしのもの——を必ず並べて置き、合わせて我我所(ががしょ)といいます。自分への執着は、そのまま持ち物へ伸びていくからです。手放すときに痛むのは、それがすでに自分の一部になっているから。固定費が下がらない理由も、たいていここにあります。
四悉檀(ししつだん)=教えの、四つの届け方。悉檀はシッダーンタの音写で「あまねく施す」。『大智度論』巻一に、①世界悉檀(世間の言葉で説く) ②各各為人悉檀(相手の性質や力に応じて説く) ③対治悉檀(その人の煩悩に狙いを定めて説く) ④第一義悉檀(真実をそのまま説く)と分けられます。注目すべきはいちばん正しい第一義悉檀が四番目に置かれていること。正しさは、届き方の後ろにあります。
現量(げんりょう)/比量(ひりょう)=じかに見て知ること/筋道をたどって知ること。仏教の論理学因明(いんみょう)の用語で、五〜六世紀の陳那(ちんな=ディグナーガ)が『集量論』で、正しい認識の根拠はこの二つだけと限定しました。現量は「現量除分別」=思い込みを含まないもの。決定的なのは、それまで独立に数えられていた聖教量(権威ある者の言葉)を、比量の一種に格下げしたこと。誰が言ったかは、それだけでは根拠になりません。
似現量(じげんりょう)/似比量(じひりょう)=現量・比量に似ているが、本物ではないもの。分別(思い込み)が混じった瞬間、それは現量ではなく似現量になります。「自分の目で見た」と思っているのに、見たものの意味は誰かが乗せていた——いちばんたちの悪い形です。物証は意味を持ちません。意味はいつも見る側が足しています。
十四無記(じゅうしむき)=お釈迦様が答えなかった十四の問いの一覧。世間は永遠か・限りはあるか・如来は死後どうか・命と身は同じか——『倶舎論』『箭喩経』などに出ます(数え方に幅があり十無記・十六無記とも)。答えても苦が減らないから黙った、というのが理由で、「答えなかった」という事実のほうが教えとして残されました。⚠️わからないまま進む手順を、仏教は最初から持っています。
思業(しごう)/思已業(しいごう)=意志そのものが業であること/意志を終えて実際に体や口を動かした分の業。『増支部』に「比丘たちよ、思(し)こそが業であると私は説く。思ってのち、身・口・意によって業をなす」とあります。思(原語チェータナー)とは意志のこと。仏教は業を、結果の数では測っていません。同じ結果でも、その死を手段として意図したのか、予見はできたが目的ではなかったのかで、業が変わります。⚠️「意志で測る」は「結果はどうでもいい」ではありません。思已業もはっきり業のうちです。
不一不異(ふいつふい)=一つでもなく、二つでもない。龍樹『中論』の冒頭は不生・不滅、不常・不断、不一・不異、不来・不出の八つの否定で始まります(八不中道)。極端な見方を両方否定することで、真ん中が見えてくる、という作り方です。「同じか、違うか」の二択が成立するには、変わらない中身がどこかにある必要があります——仏教はそこを認めません。『ミリンダ王の問い』でギリシア系の王に問われたナーガセーナも、「同一でもなく、別ものでもない」と答えました。
乾闥婆城(けんだつばじょう)/十喩(じゅうゆ)=空に浮かんで見える幻の城、つまり蜃気楼。乾闥婆(ガンダルヴァ)が幻術で作る城から、実体のないもののたとえに。『大智度論』は世のありようを幻・陽炎・水中の月・虚空・こだま・乾闥婆城・夢・影・鏡中の像・化の十でたとえます。肝は影との違い——影には本体がありますが、蜃気楼は向こうに本物の城があるのではなく、最初から城が無い。⚠️空は無ではありません。見えてはいます。歩いて行っても着かない、というだけです。
回光返照(えこうへんしょう)=光を、自分のほうへ向け返すこと。『臨済録』にある教えで、自分のうちにある智慧の光を外に振り回さず、向きを変えて自分を照らす。解説では「原因を外にばかり求めず、自らを省みよ」と言われます——このブログが他因自果と呼んできたものへの、そのままの戒め。仏教語には向きがあります。因の語(自因自果・業・戒・凡夫・悪人正機)は自分に、縁の語(共業・三草二木・四悉檀・一水四見)は他人に。⚠️謙虚さの話ではなく構造の話です。他人のyを見ても、そのxを知らないのでaは求まりません。
信楽(しんぎょう)=疑いなく信じて、よろこぶ心。「しんらく」ではありませんし、快楽の楽でもありません。『無量寿経』第十八願の「至心信楽 欲生我国」に出る三心(至心・信楽・欲生)の一つで、親鸞聖人は三心を信楽の一心に収めました。この信心が往生の真の因になる(信心正因)とされますが、⚠️その信心すら自分の手柄ではなく、いただいたものと見ます。ラッセル『幸福論』の原題が「幸福の獲得」だったのに対し、こちらは届いてくるもの。
深心(じんしん)=『観無量寿経』が説く三心(至誠心・深心・回向発願心)の二番目で、深く信じる心のこと。※『無量寿経』第十八願の三心(至心・信楽・欲生)とは別の組です。混ぜないこと。
二種深信(にしゅじんしん)/機の深信・法の深信=善導大師『観経疏』散善義が、深心を二つに開いたもの。機の深信=自分は自力では生死を出られない凡夫だ、という信。法の深信=その自分を本願が必ず救う、という信。順番でも段階でもなく、一つの深心の二つの面です。⚠️片方だけ取り出すと必ず毒になります——機だけなら自己否定、法だけなら造悪無碍。なお機は「教えを受ける側」の意(対機説法の機)。
六字釈(ろくじしゃく)=南無阿弥陀仏の六文字を分解して説明すること。善導大師『観経疏』玄義分が「南無」=帰命(おまかせします)・発願回向、「阿弥陀仏」=その行、と釈したのが元。⚠️ここでの「南無」はこちらの心の働きですが、親鸞聖人はこの帰命を本願招喚の勅命=仏の呼び声と読み替えました。向きが逆転しています。
機法一体(きほういったい)=蓮如上人『御文章』四帖目(機法一体章)の語。「南無」=救われる私(機)、「阿弥陀仏」=救う仏(法)が、六文字の中で離れずに一つになっている、という見方。だから機の側から見ても、法の側から見ても、同じ六字になります。⚠️一体は「離れない」であって「同じ位になる」ではありません(この身のまま仏になる、は『歎異抄』が退けた異義)。
三願転入(さんがんてんにゅう)=親鸞聖人が『教行信証』化身土巻に記した、自身の遍歴。第十九願(万行諸善=いろいろな善を積んで往生しようとする)→第二十願(念仏一つに絞る)→第十八願(他力)。⚠️注目は真ん中で、念仏していた段階すら「方便」とされています。教学の言い方では「法は他力、機は自力」——道具は正しいのに、握り方が自力(念仏を自分の功績として数えている)。⚠️読み方は古くから必然説・寄顕説・折衷説に分かれるので、「早く次へ行け」の督促には使わないこと。
果遂の願(かすいのがん)=第二十願の別名。願の文の「果遂せずは、正覚を取らじ」から。噛み砕くと「必ず遂げさせる。遂げさせられないなら、私は仏にならない」。つまり自力のまま念仏している途中の段階も、放置されていません。途中も願の中にあります。
化土(けど)/方便化土・疑城胎宮(ぎじょうたいぐう)=本物の浄土(真実報土)の手前にある、仮の場所。第十九願・第二十願で往生した人が生まれるところ。⚠️罰ではありません——『無量寿経』は「かの宮殿に生れて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず」と書きます。建物は宮殿のまま、会えないという一点だけが抜けている。閉じ込めているのは仏ではなく疑いのほうです。⚠️「辺地往生は地獄に落ちる」は『歎異抄』第十七条が退けた異義——「なにの証文にみえ候ふぞや」。最後には報土のさとりをひらくと書かれています。
真仮(しんけ)=真実と、仮(方便)。⚠️「仮」はにせものという意味ではありません。本当のところまで運ぶための、本当の手だてのことです。方便の条件の最後が「必ず戻って本当を告げる」だったのと同じで、置き去りにはしない設計になっています。
難行道(なんぎょうどう)・易行道(いぎょうどう)=龍樹『十住毘婆沙論』易行品の「陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし」から。歩いて行くか、船に乗るか。⚠️目的地は同じ(どちらも阿惟越致=不退転に至る道)で、変えたのは行き方であって行き先ではありません。この呼び名を整えたのは曇鸞『往生論註』で、そこが挙げる難行道の困難の五番目が「ただ自力のみにして、他力の持つなし」——難しいのは行が厳しいからではなく、独りだから。⚠️易行は「簡単」ではありません(船は在るのに、乗ると決めるまでが難しい)。
七高僧(しちこうそう)=親鸞聖人が自分の先生として選んだ七人。インドの龍樹(150〜250ごろ)・天親(4〜5世紀)、中国の曇鸞(476〜542)・道綽(562〜645)・善導(613〜681)、日本の源信(942〜1017)・法然(1133〜1212)。⚠️この七人は、ほとんど互いに会っていません——直接の師弟は道綽と善導、法然と親鸞の二組だけ。道綽にいたっては曇鸞の碑文を四十八歳で読んで転じました(曇鸞の没後二十年に生まれています)。選定の基準に「書き残していること」が入っているのはそのためで、『正信偈』も「唯可信斯高僧説」=ただこの高僧の説を信ずべしと、人ではなく説を指しています。
現生十種の益(げんしょうじっしゅのやく)=『教行信証』信巻。「金剛の真心を獲得すれば…必ず現生に十種の益を獲」——冥衆護持・至徳具足・転悪成善・諸仏護念・諸仏称讃・心光常護・心多歓喜・知恩報徳・常行大悲・正定聚に入るの十。⚠️金銭も健康も願望成就も一つも入っていません(だから「祈っても叶わない」と矛盾しません)。そして八と九は「する」ことが利益に数えられています——渡す側に回れること自体が、いただいたものという見方。本体は十番目で、現生=死んでからではなく今、行き先が定まります。⚠️自己採点表にも、人を測る物差しにもしないこと。
称名報恩(しょうみょうほうおん)=南無阿弥陀仏と称えるのは、お礼としてという意味。対になるのが信心正因で、往生の正しい因は信心のほう。蓮如上人は『御文章』で、往生が定まったと述べたうえで「そのうえの称名念仏は御恩報謝と心得よ」と書きました。⚠️つまり称名は往生の条件ではありません——『歎異抄』第一条も「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」=まだ一度も称えていない時点で決まっていると書きます。⚠️ただし条件でないことと、要らないことは別。そして回数を数えはじめたら報恩ではありません。
四有(しう)=生まれてから次に生まれるまでを四つに区切った見方。『倶舎論』など。生有(生まれる瞬間)・本有(生まれてから死ぬまで)・死有(死ぬ瞬間)・中有(死んでから次に生まれるまで=四十九日の中陰)。※「四有」と「死有」は同じ読みなので注意。⚠️譬え話の四人の妻(肉体・財産・家族・心)は、死有の一点で何がはがれるかを四人に分けて描いたもの。手をかけた順と、残る順が逆になっているのが要点です。
調御丈夫(じょうごじょうぶ)=仏の別名。如来・応供・正遍知…と続く如来十号の一つで、噛み砕くと「馬を調える人」(「ちょうごじょうぶ」とも)。御者が馬を調御するように、人を導いて悟りに至らせる者の意。説明に「あるいは軟語、あるいは苦切語」とあり、やさしい言葉も厳しい言葉も相手の機根を見て使い分けるとされます。⚠️『雑阿含経』の四種の馬(鞭の影で走る/毛に触れて/肉に当たって/骨に達して。鞭=病・老い・死)と合わせて読むと、鞭の深さを決めているのは御者ではなく馬のほうだと分かります。
一切智(いっさいち)=すべてを知る智慧。仏は一切智者(すべてを知る者)とも呼ばれます。原語はサルヴァジュニャ。⚠️広い意味と狭い意味で用法に幅がある語です。この語が効くのがシンサパの葉の譬え——お釈迦様が林で葉をひとつかみ取り「私が知っていて説かなかったことは林の葉のように多い。説いたのは手の中の葉ほどだ」と言った場面。「知らない」ではなく「知っていて削った」と明言しているのが要点で、削る基準は正しいかどうかではなく、苦が減るほうへ向かうかどうかでした。
四句分別(しくふんべつ)/テトラレンマ=答え方は四通りあるという数え方。Aである/Aでない/Aでありかつでない/AでもなくAでないでもない。⚠️十四無記の①〜⑫は、そっくりこの形——つまりお釈迦様は、ありうる答えを四通りとも先にならべたうえで、その全部に答えていません。知らないから黙ったのでも、答えたくないから黙ったのでもなく、問いの形のほうを断っていると読めます。のちに龍樹が『中論』で八不中道に使いますが、⚠️四句分別は龍樹の発明ではなく、より古い経典にあったものとされます。
拈華微笑(ねんげみしょう)=霊鷲山でお釈迦様が花を一輪ひねって見せ、摩訶迦葉だけがかすかに微笑んだという場面。説明は一切なく、そこで「正法眼蔵、涅槃妙心…を摩訶迦葉に付嘱する」と言われたと伝えられます。禅の始まりとされる話。⚠️初出は北宋の『大梵天王問仏決疑経』で、中国撰述の偽経とされます(ただし経の成立前から流布していたとも言われ、断定はできません)。
教外別伝(きょうげべつでん)=経典の外に、別に伝わるものがあるということ。不立文字(ふりゅうもんじ)=文字では立てられない、と対で語られます。⚠️「言葉にできないものがある」を、説明を放棄する口実にしないこと——拈華微笑で選ばれた迦葉は、第一結集を主導して教えを言葉に固定した人でもあります。言葉にできる分を全部言葉にしたうえでの話です。
妙好人(みょうこうにん)=浄土真宗の、在家の篤信者。出家せず、働きながら信心に生きた人たち。語源は『観無量寿経』が念仏する人を分陀利華(ふんだりけ)=白蓮華と呼んだ一節で、善導大師が『観経疏』で「人中の妙好人」と注したもの。⚠️蓮は泥の中に咲きます——泥を出て咲くのではありません。代表は浅原才市(1850〜1932/石見の下駄職人)。仕事で出るかんな屑に詩(口あい)を書きつけました。⚠️目標にしないこと——「ああいう境地になりたい」と思った時点で、自分の点数を数える構えに戻ります。
信心決定(しんじんけつじょう)=信心が定まること。本願の救いを疑う心がなくなることをいい、信心獲得(しんじんぎゃくとく)とも。蓮如上人『御文章』の「人間は出ずる息は入るを待たぬならいなり」——吐いた息が吸えるとはかぎらない、だから油断なく、と続きます。⚠️自分で採点しないこと——定まったかどうかを点検しはじめたら、それは機の側の出来を測る作業に戻っています。妙好人因幡の源左の場合、それが起きたのは寺でも仏前でもなく、山道で牛に草を載せた瞬間でした。
煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)/罪悪深重(ざいあくじんじゅう)=煩悩が燃えさかっている状態。「煩悩がある」ではなく「燃えている」。『歎異抄』第一条に「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」とあり、⚠️助ける対象として名指しされている状態です。妙好人六連島のお軽は、夫の裏切りへの恨みから寺に通い、三十五歳で憎しみも恨みも嫉妬も自分の中にあると気づきました。⚠️ただし「相手は悪くなかった」という話にはしないこと——自分の中に恨みがあると知ることと、恨む理由がなかったことは別です。
御同朋・御同行(おんどうぼう・おんどうぎょう)=同じ道を行く、仲間。親鸞聖人は門弟を弟子と呼ばず、『歎異抄』第六条に「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」とあります。上下ではなく、横の関係。妙好人讃岐の庄松が本山で上人の袖を引き「赤い衣を着ていても、赤い衣で地獄逃れることならぬ」と言ったとき、⚠️上人は怒らず「兄弟の杯」を交わしたと伝えられます——これが制度の外でやった御同朋の形。なお赤い衣で逃れられないなら、赤い衣でないほうも同じ=庄松は差がないと言ったことになります。
非僧非俗(ひそうひぞく)/肉食妻帯(にくじきさいたい)=僧でもなく、俗でもないという立場。親鸞聖人は三十五歳のとき僧籍を剥奪されて越後へ流罪になり、『教行信証』後序に「しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす」と記しました。⚠️順番に注意——戒を破ったから僧でなくなったのではなく、僧でなくされてから、肉を食べ妻を持つ生活を選んだ(結婚の時期は諸説あります)。禿は侮りの語でもあり、それを姓にして愚禿釈親鸞と署名しました。⚠️「戒は要らない」でも「肩書きは要らない」でもありません——望んで外れたのではなく、外されたところから始めた人です。
賽の河原(さいのかわら)=親より先に亡くなった子が河原で石を積み、鬼に崩されるという話。⚠️仏教の経典には説かれていません。民間信仰と仏教が混ざって生まれたもので、地蔵和讃(鎌倉)・富士の人穴草子(室町)・西院河原地蔵和讃(江戸)と下り、江戸期に広まった俗信とされます。⚠️因果としても成り立ちません——親より先に死んだという一点だけで罰が科され、結果だけがあって原因が用意されていない。しかもいちばん刺さるのは、残された親のほうです。真宗では幼くして亡くなった子も、命終わるときに仏になると受け取るので、河原で石を積み続けてはいません。
三界(さんがい)/非想非非想処(ひそうひひそうしょ)=衆生が生死を繰り返す三つの領域。欲界(淫欲と食欲がある。地獄〜人間〜六欲天)・色界(欲を離れ、清らかな物質だけがある。四禅天)・無色界(物質からも離れ、精神のみ。四無色天)。⚠️活動のジャンル分けではありません——色界・無色界は禅定の階層で、生きている人間は全員、欲界にいます。⚠️そして頂点の非想非非想処まで行っても、まだ輪廻の中。だから三界をまとめて火宅と譬えます。お釈迦様はこの境地に即座に到達したうえで、これも悟りではないとして去りました。
少欲知足(しょうよくちそく)=少欲=求めるものを少なくする、知足=いま在るもので足りると知る。⚠️「我慢しろ」ではありません——少欲は求める量の話、知足はいま在るものの見方の話で、前者だけだとただの我慢になります。満足を決めているのは量ではなく器のほう(→応量器)。儒教の縁木求魚(『孟子』梁恵王上)と並べると分かりやすく、⚠️孟子の原典には「木に登って魚を求めても取れないだけで後の災いはない。心力を尽くせば必ず後に災いあり」という続きがあり、分かれ目は努力の量ではなく向きだと言っています。
我執(がしゅう)=自分というものへの、しがみつき。⚠️ここでいう「自分」にはこれまでの自分の判断も含まれます。間違いを認められないとき、守っているのは事実ではなくそう判断した過去の自分のほう。心理学の認知的不協和——矛盾を抱えると変えやすいほうの認識を変える——は、これを外側から記述したものと言えます。⚠️仏教は逆に、認識をそのままにして行動のほうを変えろと言います(自因自果)。
五欲(ごよく)=人の根っこにある五つの欲。財欲・色欲・名誉欲・食欲・睡眠欲。⚠️階層ではありません——登る順番も上下もなく、並んでいるだけです。マズローの欲求段階説が下から順に登るピラミッドで描くのに対し、仏教は満たすほど器が大きくなるものとして見ます。六道も同じで、上下があるように見えて輪廻=回るモデル。天上界も六道の一つで、尽きます。
所知障(しょちしょう)/煩悩障(ぼんのうしょう)=唯識でいう二障。煩悩障=煩悩が心身を乱し、さとりを妨げる。所知障=知るべきものを覆って、正しい智慧が生じるのを妨げるもの。⚠️「知識そのものが障り」という意味ではありません——知ろうとすることを、知らせないようにする障り、と説明されます。つまりすでに持っている見方が、まだ知らないものを覆う。⚠️厄介なのは、覆っているものが「正しい知識」の顔をしているので気づきにくい点です。
そらごとたはごと(空言・戯言)=『歎異抄』後序の一節。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」。⚠️否定で終わっていません——あらゆることが空言だと言い切ったあと、一つだけ残しています。ここを落とすと「どうせ全部むなしい」という虚無になります。⚠️また、もともとは善悪の判断について語られた文で、他人の幸せに向けて使う言葉ではありません(親鸞聖人が自分について語ったもの)。
横超(おうちょう)=親鸞聖人が仏教全体を整理した二双四重(にそうしじゅう)の一つ。竪(しゅ)=自分の力で段階を追って上へ登る道(聖道門)、横(おう)=仏の力で横ざまに超える道(浄土門)。これに超(一気に)と出(だんだんと)を掛けて、竪出・竪超・横出・横超の四つに分けます。横超は本願の力で横ざまに超える道で、親鸞聖人が真実とした道。善導大師『観経疏』の偈に「共発金剛志 横超断四流」とあり、四流は欲・有・邪見・無明の四つの激流(親鸞聖人の釈では生老病死とも読まれます)。⚠️「近道」ではありません——距離を縮めたのではなく、向きが違います。⚠️道の分け方であって、人の等級ではありません。
漏(ろ)=煩悩の異名。原語アースラヴァ。『大毘婆沙論』はこの一字に「迷いの境涯に留めるもの」「六処の門から流れ出るもの」「輪廻に縛りつけるもの」の三つの意味を与えます。要点は二つ目——煩悩は外から降ってくるのではなく、六処(目・耳・鼻・舌・身・意)の門から漏れ出るもの。だから「漏」の字が当てられました。漏のある状態が有漏(うろ)、無い状態が無漏(むろ)(一休の道号「有漏路より無漏路へ帰る一休み」の漏)。有漏の説明には「他の煩悩に働きかけて、煩悩を増大させるもの」ともあり、漏が漏を呼ぶところまで書かれています。四つに数える立場では四暴流(「横超断四流」の四流)と同じものを指します。
指月(しげつ)の譬え/標月指=龍樹菩薩『大智度論』に説かれ、『楞厳経』にも記される譬え。「人が手で月を指して示すとき、示された人は指によって月を見るべきである。もし指のほうを見て月そのものだと思えば、その人は月を見失うだけでなく、指をも失う」。理由まで書かれていて、指し示すための指を、明るい月だと思ってしまうからです。⚠️なぜ指まで失うのか——指は「あちらを見よ」と働くから指であって、月をささなくなった指はただの棒になります。教えは、指し示すのをやめた瞬間に教えでなくなる。『荘子』秋水篇の「曲士に道を語れないのは、教えに束縛されているから」と同じ場所を指しています。⚠️「だから学ぶな」ではありません——縛るのは教えではなく、それを握った手のほうです。
発露(ほつろ)=犯した罪を隠さず、仏前にあらわにすること。発露懺悔・発露白仏(びゃくぶつ)とも(「白」は申し上げるの意)。『大般涅槃経』に「罪を犯すことあらば、教えて発露懺悔して滅除せしむ」、『大方等大集経』にも用例があります。懺悔がどこでするか(仏の前)だとすれば、発露は何をするかにあたります。⚠️経典は「滅除」と書きますが、『歎異抄』第十四条は「一念に八十億劫の重罪を滅す」を異義として挙げ、「罪を滅せんとおもはんは、自力のこころ」と判定しました——消えるかどうかではなく、消そうとする心のほうを問題にしています。同条が示すのは「命終すれば、もろもろの煩悩悪障を転じて」=消すのではなく転じる、しかも命終のとき。⚠️人に発露を強要しないこと——迫れば、それは発露ではなく取り調べです。
三苦(さんく)=苦しみの三分類。苦苦(くく)=苦しいものがそのまま苦しい(殴られる・切られる・焼かれるなど、好ましくないものが来る苦)。壊苦(えく)=楽しかったものが崩れる苦。行苦(ぎょうく)=世の中が移り変わっていくこと、そのものによる苦。⚠️説明のしかたに幅があり、苦苦を肉体の苦・壊苦を心の苦と分ける読み方もあります。要点は苦苦だけが「事件」の形をしていること——壊苦は楽しいときに仕込まれ(楽しくなければ壊れようがない)、行苦は何も起きていないときに進みます。だから残り二つは相手がいないぶん、説明できず長く残ります。⚠️人の苦しみを分類する物差しにしないこと。
一向専修(いっこうせんじゅ)=一向に(ひたすら)、ただ念仏一つを修めること。法然上人『選択本願念仏集』に「往生の行は多いけれども、大きく分ければ二つ。一つには専修、いわゆる念仏。二つには雑修、いわゆる一切の諸の行」とあり、正行を行ずる者を専修の行者、雑行を行ずる者を雑修の行者と呼びます。⚠️「二兎を追う者は一兎をも得ず」とは、絞った理由が逆——ことわざは絞れば取れるという前提に立ちますが、一向専修は絞っても自力では取れないところから始まります。絞った理由も効率ではなく、諸行を残せば学問や時間や健康のある人ほど有利になるから。残された一つはいちばん効率のいい行ではなく、いちばん取りこぼしが少ない行でした。⚠️「頑張って一つに絞ること」と読まないこと/「あの人は雑修だ」と他人の採点に使わないこと。
只管打坐(しかんたざ)/修証一等(しゅしょういっとう)=道元禅師の教え。只管打坐=ひたすら、ただ坐ること。悟りを得ようという思いも、功徳を積もうという考えも捨てて坐るのが要点です。では何のために坐るのか——その答えが修証一等(『弁道話』)。修行と証(さとり)は一つであり、坐ったから悟るのではなく、坐っているその姿がすでにさとりのほうだとします。だから三年後を待たない。今日が何かの準備期間にならないので、無駄になりようもない。⚠️「意味を考えるな」ではありません——外したのは目的であって、思考ではない。⚠️このブログは浄土真宗をもとにしていますが、これは曹洞宗の教えです。宗派の優劣ではなく「今日を手段にしない」という一点だけを借りています。
無明長夜(むみょうじょうや)/灯炬(とうこ)=明かりのない、長い夜。無明(真実が見えていない状態)を夜にたとえた語で、一寸先どころか生涯まるごとが夜だという見方です。親鸞聖人最晩年の『正像末和讃』に「無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ」とあります。灯炬=ともしび。⚠️肝は「夜が明ける」と一言も書いていないこと——「明けない夜はない」が闇を否定するのに対し、和讃は夜のままだと認めたうえで灯りを渡します。続く「智眼くらしとかなしむな」も目が見えるようになるとは言っていません(見えないままでよい、灯りのほうが来ているから)。⚠️親鸞聖人がご自身に向けて詠まれたもので、暗い中にいる人へ向けて使う言葉ではありません。
群盲評象(ぐんもうひょうぞう)/群盲象を評す=『北本涅槃経』『長阿含経』などに出る譬え。目の見えない人たちが象の一部を触り、牙は大根の根、耳は箕、鼻は杵、尾は縄のようだと、それぞれ違うことを言う。⚠️肝は、全員が実際に触っていて、報告そのものは正しいこと——間違っているのは「それが象の全部だ」と思った一点だけです。そして経典が配役の答えを書いています——王は如来、象は仏性、目の見えない人たちは一切衆生の無明。つまり他人ではなく、私たち全員のこと。パーリ仏典『自説経』では、釈尊が論争する沙門やバラモンにこの譬えを当てています。根拠がないから争うのではなく、根拠があるから争うという構造です。⚠️「あの人たちは群盲だ」と使わないこと——言った瞬間、自分が王の席に座ります。⚠️「どの意見も等しく正しい」でもありません(象は一頭しかいない/2132一水四見と同じ歯止め)。
一音演説法(いっとんえんぜっぽう)/一音教=『維摩経』仏国品の「仏は一音をもって法を演説したもうに、衆生は類に随って各々解を得」から。仏が発している声は一つ。ところが聞く側がそれぞれ違うので、受け取られた内容が分かれるという見方です。⚠️対機説法とは、向きが逆——対機説法は説く側が相手に合わせて変える、一音演説法は説く側は変えていない。教えが複数あるのではなく、聞く人が複数いることになります。群盲評象を音でやった形で、象は一頭、音は一つ、違うのは触った場所と聞いた耳。⚠️「受け取り方の数だけ真理がある」ではありません(音は一つ)。⚠️「あなたの受け取り方が悪い」と人に言う道具でもありません——自分の耳について考える言葉です。
六和敬(ろくわぎょう)=お釈迦様が定めた、僧団が和合して暮らすための六つの原則。身和同住(同じ場所で身をともにする)/口和無諍(言葉で争わない)/意和同事(心を合わせて事にあたる)/戒和同修(同じ規範を守る)/見和同解(目指すところの理解を共有する)/利和同均(利益を等しく分ける)。⚠️六つのうち、人数について書かれたものが一つもありません——集まりが機能するかは人数ではなく条件で決まると読めます。いちばん現実的なのは利和同均で、会議が平行線になるのは意見が違うからではなく、分けられる利益が違うから。この和合を壊すこと(破和合僧)は五逆罪の一つに数えられます。⚠️「見和同解」を同調圧力にしないこと——共有するのは目指すところの理解であって、一つ一つの意見ではありません。異論を封じたら、三人寄っても文殊の知恵は出ません。
成住壊空(じょうじゅうえくう)/四劫(しこう)=『倶舎論』などに説かれる、世界が生まれてから無くなるまでの四区分。成劫(世界が成立する)/住劫(できあがった世界が続く)/壊劫(壊れていく)/空劫(壊れきって何もない)。⚠️肝は、空劫のあとにまた成劫が来ること——循環して尽きることがないとされます。四劫をひとめぐりする期間が一大劫。いま私たちがいるのは住劫ですが、「安定期」ではなく、終わりが最初から設定されている期間です。⚠️「壊れてもまた始まる」は救いの話ではありません——三界が「どこへ登っても同じ家の中」なら、四劫は「家が壊れてもまた同じ家が建つ」。繰り返すこと自体が問題だという立場です。⚠️須弥山を中心とする世界の地理は現代の天文学とは合いません。扱えるのは時間の構造のほうだけです。
四分(しぶん)=唯識が認識を四つに分けたもの。相分(見られる側=心に現れた対象)/見分(見る側)/自証分(見る側と見られる側の両方を見ているはたらき)/証自証分(自証分を確認するはたらき)。⚠️もとは三つでした——陳那は「灯火は周囲を照らすと同時に、自分自身も照らす」として自証分までで足りるとし、護法が無限に遡ってしまう危険を理由に証自証分を加えました。『成唯識論』では自証分と証自証分が互いに証しあうので、認識はここで完結するとされます。⚠️肝は、四つとも「私」ではないこと——どれも心のはたらきに付けた名前で、分解しても本体は出てきません。⚠️「本当の自分探し」の道具にしないこと(分けてみたら本体が無かった、という話です)。
綺語(きご)/両舌(りょうぜつ)=十悪のうち、口の悪行四つ(妄語=嘘/綺語=飾った言葉/悪口=悪態/両舌=二枚舌)のうちの二つ。綺語はおべっか・へつらい・巧言で、心にもない言葉を並べること。両舌は別名離間語で、人と人の仲を裂く言葉。⚠️体の悪行が三つ、心の悪行が三つなのに、口だけ四つあります。理由は嘘だけを禁じたのでは足りないから——一つも嘘をつかずに、綺語と両舌を犯すことができる(『ジュリアス・シーザー』のアントニーの演説がその実例)。⚠️他人の発言を採点する道具にしないこと。四つとも自分の口について使うものです。
十界(じっかい)/四聖(ししょう)=心のありようを十に分けた見方(天台宗の整理)。下の六つが六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)、上の四つが四聖——声聞(仏の教えを聞いて悟る)/縁覚(独力で悟る。師なしなので独覚とも)/菩薩(仏を求めつつ、得たものを他にも分け与える)/仏。⚠️肝は、独りで悟った縁覚が、まだ仏でない菩薩より下に置かれること。縁覚の説明には「独力で悟り、それを他人に説かない」とあり、独りで悟ったことではなく、説かないことのほうが分かれ目でした。つまりある地点から先は、深さではなく向きで上がる。⚠️人を分類する道具にしないこと/⚠️天台の枠組みで、真宗はこの階梯を中心に置きません。
三獣渡河(さんじゅうとが)=『優婆塞戒経』に説かれる譬え。兎・馬・象が同じ河を渡るが、兎は水に浮いて底に届かず、馬は足が底に届いたり届かなかったり、象は足が底に達する。それぞれ声聞・縁覚・菩薩に喩えられます。⚠️「徹底」という語は、この象の渡り方(底に達する)から来ているとされます。⚠️肝は、三匹とも河に入っていること——並べているのは底に届くかどうかであって、渡るか渡らないかではありません。底を知らないことと、河にいないことは別。そして象は徹底しようと決意して底に着いたのではなく、象だから着いた——底に届くかは努力の量では決まらない。⚠️人を三匹に振り分ける道具にしないこと。
異安心(いあんじん)=宗祖の説く信心とは違うとみなされた信心のこと。真宗では信心のことを安心(あんじん)と言い、そこから外れたものを異安心と呼んで排斥の対象にしてきました。異義・邪義とも言います。⚠️『歎異抄』の後半八条は、この異安心を並べた一覧でした(学問がなければ往生できない、施物の多少で仏の大小が決まる、など)。⚠️そして『歎異抄』を世に広めた暁烏敏(あけがらす はや)自身が、明治44年に異安心の扱いを受けています。⚠️「誰が異端か」を決める道具にしないこと——教団が異端と呼んだものと、後から見て問題だったものは、一致するとはかぎりません。
秘事法門(ひじほうもん)=中身を公にせず、秘密のうちに伝えるという形をとった異安心。御蔵法門・くらがり法門・言わず講などの別名が残っています。⚠️起こりは、親鸞聖人の息子・善鸞(ぜんらん)が「父は夜中に自分にだけ深い秘密の法を授けた」と称した一件とされ、聖人は建長八年(1256年)に善鸞を義絶しています(善鸞義絶状「今ハ父子ノキハ アルヘカラス」)。のちに蓮如上人が異端として禁じました。⚠️見分ける目印は「秘密」そのもの——本願は誰にでも同じように届くもので、一部の人だけが特別に受け取る筋道は、はじめから用意されていません。
浄土三部経(じょうどさんぶきょう)=『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の三つ。法然上人が『選択本願念仏集』で定めた呼び名とされ、浄土宗・浄土真宗の根本の経典です。噛み砕くと、無量寿経は法蔵菩薩の四十八願、観無量寿経は韋提希夫人が救われる話、阿弥陀経は浄土のありさま。⚠️清沢満之が自分の「三部経」として挙げたのは、この三つではなかったと言われます——『阿含経』『エピクテタスの語録』『歎異抄』。⚠️ただしこれは「三部経は何でもよい」という話ではありません。清沢が最後に置いたのは自分で選んだ三冊ではなく、絶対他力という言葉のほうでした。
下天(げてん)/四大王衆天(しだいおうしゅてん)=六道のうち一番上の天道の、そのまた一番下の階。四天王が住むとされます。この天の一日が、人間の五十年にあたるとされました。⚠️幸若舞『敦盛』の「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」はこれを指しており、「人生は五十年しかない」という意味ではありません——比べる相手の桁が違う、という話です。版により「化天(=化楽天)」とも伝わります。⚠️織田信長が好んで舞った句ですが、信長の作でも辞世でもなく、舞ったのは桶狭間の前とされます。
僧綱(そうごう)/権僧正(ごんのそうじょう)=僧尼を統轄するために置かれた役職。推古天皇の時代に始まり、僧正・僧都(そうず)・律師の三つからなります。貞観六年には位も定められ、僧正には法印大和尚位が与えられました。のちに「権(ごん)」のつく官が置かれ、⚠️しだいに称号のようになっていったとされます。⚠️武田信玄も元亀三年(1572年)に権僧正を受けています(「信玄」は法名で、諱は晴信。比叡山の天台座主・覚恕を保護した縁によるとされる)。⚠️位の高さは、行いの善さとは別です——信玄は父を追放し、嫡男を死なせています。
天部(てんぶ)/毘沙門天(びしゃもんてん)=仏教に取り込まれた神々のこと。仏や菩薩とは別の枠で、仏法を守る側に立ちます。毘沙門天は四天王の一人(多聞天とも)で、⚠️住んでいるのは下天=四大王衆天——「人間五十年、下天のうちを比ぶれば」のあの天です。⚠️天部は仏ではなく、まだ六道の中にいます。天上界も六道の一つで、いつか尽きます。⚠️拝むのが悪いという話ではありません(護法の神として敬うのは筋が通る)。ただそこは終点ではない、という一点だけ。上杉謙信は毘沙門天を篤く信じ旗に「毘」を掲げましたが、受けていた戒は三帰五戒でした。
不害(ふがい)/アヒンサー=生きものを害さない心。唯識の五十一心所では善の十一のいちばん最後に置かれます(信・精進・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・軽安・不放逸・行捨・不害)。⚠️身体的な暴力だけを指しません——そうでない害からも遠ざける心とされます。⚠️原語のアヒンサーは、ガンジーが使ったのと同じ語。ただしガンジーは仏教徒ではなく、アヒンサーはインドの諸宗教に共有された語で仏教の専売ではありません。⚠️報怨行が自分に向ける行であるのに対し、ガンジーは同じ語を外を動かす方法に組み替えました。
愚痴(ぐち)=⚠️日常語の「ぐちをこぼす」ではありません。仏教では三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の一つで、物事の道理に暗いこと——無明を指します。不平不満のことではありません。⚠️三毒の中でいちばん根が深いとされ、貪りも怒りも、道理が見えていないところから出てきます。このブログでは45記事で使ってきた語ですが、辞典に入れていませんでした。
まとめ——250語で、たいてい足ります
お経に出てくる言葉は膨大ですが、日常を読み解くのに使うのは、だいたいこの範囲です。そして気づかれたでしょうか。どの語も、特別な修行の話をしていません。握らない、溜めない、与える、続ける、聞き直す——全部、今日できることです。
言葉が難しかっただけで、中身はずっと身近な話でした。今日も良い種をまいていきましょう。


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