進路を止めた大人たちを、恨んでいました——いまは、誰も恨んでいません

原因を、いま、どこに置いていますか 仏教

運営者情報に、こう書いています。

「なぜ自分だけが」と外に原因を探していた頃は何も変わらず、「これから何をまくか」に目を向けた時から、少しずつ景色が変わりました。

「外」とは、どこだったのか。今日は、それを書きます。

重い話を含みます。しんどい時期の方は、今日は閉じて、元気な日に読んでください。記事の最後に、話を聴いてくれる窓口も置いておきます。

きっかけは、中学三年の三者面談でした

私の人生でいちばんうまくいっていたのは、中学の時代でした。そのころの話は、野球部の回に書きました。

中学では、やることは全部やった。もう、やることは何も無い。そういう状態でした。希望の進路は、ほかの高校へ進むことです。これからの人生を無双していくことに、ワクワクしていました。

きっかけは、中学三年の三者面談です。進路の相談でした。その場で、大人たちは言いました。ほかの高校には行かせない、と。

人生の計画は、そこで潰れました。別の方法をいくら考えても、行くことになった高校から、理想の人生へは結びつきませんでした。絶望しました。

そのあと、小学校のころの友人にも、中学のころの友人にも、「ダメな方に変わった」と言われました。自覚もありました。

原因を、全部、外に置いていました

のちに、心を病んで動けなくなった時期があります。ブログ名の由来の回に書いた、どん底の時期です。

そのころ私は、原因を全部、外に置いていました。進路を止めた大人たち。クラスメート。学校の環境。まわりの人たち。

自分に何ももたらさないものに、時間も、お金も、将来も、奪われていく。そう思うと、憎しみが湧きました。

朝は、起きたときから深いため息が出ます。一日じゅう、死にたいと思っていました。夜中、寝ているあいだに憎しみが湧いてきて、泣いたり、叫んだりしました。いま振り返ると、ふつうの状態ではなかったと思います。

そして、私を追い詰めていたのは、この憎しみでした。

問題の所在——憎しみは、誰を追い詰めていたのか

進路が通らなかった。これは、起きたことです。決めたのは大人たちで、中学三年の私には動かせませんでした。

けれど、そのあと私を追い詰めたのは、憎しみのほうでした。憎んでいたのは私で、追い詰められていたのも私です。

相手を憎んでいるのに、苦しいのは自分。なぜ、こうなるのか。仏教には、ここをそのまま言い当てた言葉があります。

二の矢——一本目と二本目は、射る人が違います

ここで言葉を一つ。二の矢(にのや)です。噛み砕くと、起きた出来事(一の矢)に、自分で足す怒りや後悔のこと。お釈迦様のたとえとして経典に伝わっていて、『無(最高の状態)』の回でも扱いました。辞典には、こう書いています。

一の矢は他人が射ますが、二の矢はいつも自分が自分に射ています。

私の場合に当てはめます。

進路が通らなかったこと。これが一の矢です。射たのは、私ではありません。

そのあとの憎しみ。「奪われていく」という思い。これが二の矢です。こちらを射ていたのは、私でした。それも、毎日。

一の矢は、一本です。私を追い詰めたのは、数えきれない二の矢のほうでした。

「考えが足りなかった」の中身

いま、私は誰も恨んでいません。自分の考えが足りなかったことを、仏教で学んだからです。

何が足りなかったのか。三つあります。

ひとつめ。原因を全部、外に置いていたこと。

仏教の言葉では、他因自果(たいんじか)といいます。噛み砕くと、他人がまいた種の実を、自分が受け取っている、という見方。仏教は、この見方を採りません。

ここは誤解されやすいので、ていねいに書きます。「進路を止められたのは、お前のせいだ」という意味ではありません。このブログの式で言えば、あの日の結論は縁xです。外から来る条件で、自分では選べません。

私の因aは、そのあとのほうにあります。原因を外に数えつづけたこと。憎みつづけたこと。それは、私の行いでした。

ふたつめ。相手の事情や考えを、考えなかったこと。

大人たちは「行かせない」と言いました。その結論にも、その人たちなりの因と縁があったはずです。当時の私は、それを考えませんでした。見ていたのは、結論だけです。

その事情がどういうものだったのかは、ここには書きません。書けるのは、当時の私がそれを考えなかった、ということだけです。

みっつめ。希望を、相手に伝わる形で話せなかったこと。

お釈迦様は、相手に合わせて説き方を変えた人でした。対機説法(たいきせっぽう)といいます。噛み砕くと、同じ教えでも、聞く人に届く形に直して話すこと。正しいことを言うだけでは、届かない。二千五百年前に、そこまで考えてありました。

私は、自分の希望を、相手に伝わる形で話せていませんでした。

この三つを、私は仏教で学びました。仏教を学ぶと、お釈迦様は相当頭が良かったんだなと感心します。

責めるための一覧ではありません

三つ並べると、中学三年の自分を責めているように見えるかもしれません。そうではありません。

愚痴(ぐち)という仏教語があります。日常語の「ぐちをこぼす」とは別の言葉で、ものごとの道理に暗いこと、を指します。見えていなかった、ということです。

あのころの私には、見えていませんでした。そして、見えていないまま、憎みつづけました。足りなかったのは、明るさのほうでした。

恨む相手が、いなくなりました

果y=因a×縁x

縁xだけを見ていたあいだ、私にできることは、何もありませんでした。条件は、自分では選べないからです。残るのは、恨むことだけでした。

因aのほうを見るようになってから、できることが出てきました。運営者情報に書いた「これから何をまくか」です。

あの日の結論は、いまも変わっていません。変わったのは、原因の置き場所です。置き場所が変わると、恨む相手がいなくなりました。

まとめ——歯止めを三つ

ひとつ。止めた大人たちが正しかった、という話ではありません。正しかったかどうかを、この記事では決めていません。恨まないことと、相手を正しいと認めることは、別のことです。

ふたつ。いま誰かを恨んでいる人に、「あなたの考えが足りない」と言う話でもありません。この物差しは、自分に当てるものです。人に当てた瞬間に、別のものになります。いま大人に道を止められて苦しい十代の方に要るのは、仏教より先に、話を聞いてくれる別の大人です。

みっつ。「二の矢を射るな」と言えば済む話でもありません。渦中の私は、止められませんでした。心を病んだのは自分のせいだ、という意味でもありません。仏教を学びはじめたきっかけの回に書いたとおり、私の場合、先にあったのはリハビリのアルバイトでした。病んでいるときに要るのは、休むことと、医療と、相談できる場所です。物差しを当てるのは、そのあとで間に合います。

判定は、こうしておきます。原因を、いま、どこに置いていますか。

今日も良い種をまいていきましょう。

一人で抱えるには重すぎる夜は、話を聴いてくれる人がいます。電話やSNSで話せる窓口が、厚生労働省の「まもろうよ こころ」にまとまっています。学校や進路のことで苦しい十代の方は、文部科学省の「24時間子供SOSダイヤル」(0120-0-78310)に、いつでも無料で電話できます。この記事を閉じたあとの あなたの時間が、少しでも軽くなりますように。

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