才能の不公平、という古い問い
たいして練習していないのに上手い人がいる。必死でやっても届かない自分がいる。——「才能の不公平」は、おそらく人類最古の悩みのひとつです。
前回の森岡毅さんの記事で、強み=「努力せずに成果が出ること」という定義を紹介しました。今回はその続編として、「では、その強みはどこから来たのか」を仏教で掘り下げます。
「神様からの授かりもの」モデルの問題点
世間でよくある説明は「才能は天からの授かりもの」です。しかしこのモデルには、実は毒があります。
授かりものなら、才能は宝くじです。当たった人は「選ばれた自分」を誇り(慢)、外れた人は「なぜ自分だけ」と僻む(愚痴)。どちらの心も、幸せから遠ざかる方向を向いています。才能の説明の仕方ひとつで、慢と卑下が量産されてしまうのです。
仏教の答え:三世因果——畑の古い履歴
仏教は、因果の道理の外に例外を作りません。生まれつきの差も、例外ではないのです。
「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」——因果は今生だけでなく、三世(過去世・現在世・未来世)を貫くと説かれます。輪廻を繰り返しながら積み重ねてきた業(行い)——これを宿業と言います。生まれつきの才能とは、この宿業が因となり、今生の縁(親・環境・出会い)と揃って現れた果である、と仏教は説明します。
つまり強みは、空から降ってきた贈り物ではなく、自分の畑の、自分がまだ覚えていないほど古い履歴だということです。
観察できる層——「努力せず」は錯覚である
「過去世なんて確かめようがない」と思う方のために、今生だけで観察できる層も見ておきます。
実は「努力していないのに成果が出る」は、かなりの部分が錯覚です。絵の上手い子は、好きだから頼まれもせず何千枚も描いていた。話の面白い人は、好きだから無数の会話で試行錯誤していた。好きなことは、本人が努力と気づかないまま反復される——気づかぬ種まきです。「努力せずに」の正体は、「努力と認識せずに積んでいた」なのです。
三世因果は、この観察できる仕組みを、誕生の前まで延長した教えだと考えると、腑に落ちやすいと思います。
このモデルの実利——嘆く理由が消える
宿業モデルに立つと、三つのことが起きます。
第一に、慢が消えます。強みは選ばれた証ではなく、ただの履歴。誇る理由がありません。第二に、卑下が消えます。あの人と自分は、畑の履歴が違うだけ。劣っているのではなく、まいてきた種の種類が違うのです。そして第三に——ここが一番大事ですが——今日の種まきに意味が戻ります。
今の強みが過去の自分からの仕送りなら、今まいている種は、未来の自分への仕送りです。今日始めた下手くそな何かが、いつか誰かに「あの人は努力もせずにできる」と言われる日の、仕込みになっている。因果の道理は、才能の言い訳を許さない代わりに、遅すぎるスタートも認めないのです。
まとめ——不公平を嘆く手で、一粒まく
才能の不公平を嘆く時間は、畑を見比べている時間です。その手で、一粒まけます。
他人の畑の実りは、その畑の履歴のもの。あなたの畑には、あなたの履歴と、そして今日からの白紙があります。未来の自分への仕送りを、今日も一粒。

コメント