お経の主人公は、絶望した一人の女性だった——王舎城の悲劇

お経の主人公は、絶望した一人の女性だった——王舎城の悲劇 仏教

お経は「立派な人」のためのもの?

お経と聞くと、聖人や修行者のための難しい話、というイメージがあるかもしれません。自分のような凡人には関係ない、と。

ところが、浄土真宗で大切にされるお経のひとつ『観無量寿経』の主人公は、聖人でも修行者でもありません。人生のどん底に突き落とされた、一人の女性です。

今日はその話——王舎城(おうしゃじょう)の悲劇を紹介します。

信じていたものを、すべて失った王妃

お釈迦様の時代、インドのマガダ国に、韋提希(いだいけ)という王妃がいました。国は栄え、夫の頻婆娑羅(びんばしゃら)王とのあいだには阿闍世(あじゃせ)という跡継ぎの王子もいる。何ひとつ欠けるもののない人生に見えました。

その人生が、ある日、内側から崩れます。

成長した息子・阿闍世が、悪友・提婆達多(だいばだった)にそそのかされ、父である王を牢に幽閉してしまうのです。韋提希は夫を助けようとしますが、それが発覚すると、息子は母である彼女にまで刃を向けようとし、韋提希もまた宮殿の奥深くに閉じ込められました。

夫は牢の中で亡くなり、自分は実の息子に裏切られ、幽閉の身。積み上げてきたものが、家族の手によって、すべて崩れ落ちたのです。

「なぜ、私がこんな目に」

幽閉された韋提希は、憔悴しきって、遠くの霊鷲山にいるお釈迦様に向かって泣きながら訴えました。

「私は前世にどんな罪があって、こんな目に遭うのですか。なぜ、こんな世界に生まれてしまったのですか。」

——この叫び、どこかで聞いたことがないでしょうか。そうです。どん底に落ちた人間の口から出る言葉は、2500年前の王妃も、今の私たちも、変わらないのです。

するとお釈迦様は、彼女のいる牢の中に姿を現し、絶望の底にいる韋提希ただ一人のために、教えを説き始めました。その説法を記録したものが『観無量寿経』です。彼女はやがて、崩れることのない世界——阿弥陀仏の救いに出遇っていきます。

仏教は「どん底の人」に向けて説かれた

この話が教えてくれることは、はっきりしています。

仏教は、余裕のある人の教養として説かれたのではありません。夫を失い、子に裏切られ、牢の中で泣いている人のところへ、出向いて説かれた教えだということです。

しかも注目してほしいのは、お釈迦様が韋提希に「あなたにも悪い種まきがあったのだから仕方ない」と説教しなかったことです。まず牢まで来て、彼女の絶望に寄り添うところから始めました。教えとは、崖の上から投げ下ろすものではなく、同じ場所まで降りてきて手渡されるものだったのです。

三長者の言葉で言えば、韋提希は家の長者(財と地位)を一夜で失いました。しかしその底で、何があっても捨てられない心の長者(摂取不捨の利益)への道が開かれた。失うことでしか始まらない出遇いが、確かにあるのです。

もうひとつ。韋提希は、特別に強い人でも、信心深い人でもありませんでした。牢の中で彼女にできたのは、泣いて「助けてください」と訴えることだけでした。そして、それで十分だったのです。「助けて」と声に出すこと——それ自体が、東の空へ顔を向けるということでした。強くなってから救われるのではなく、弱いままで出遇っていく。それがこのお経の順番です。

お経は、どん底のあなた宛ての手紙

もし今、あなたが「なぜ私がこんな目に」という場所にいるなら、覚えておいてください。

その場所は、仏教が一番最初に届けられた場所です。お経の主人公は、あなたと同じ場所で泣いていた人でした。つまりお経とは、幸せな人への祝辞ではなく、どん底にいる人宛てに書かれた手紙なのです。

宛先は、間違っていません。受け取る資格なら、今のあなたが誰よりも持っています。


一人で抱えるには重すぎる夜は、話を聴いてくれる人がいます。電話やSNSで話せる窓口が、厚生労働省の「まもろうよ こころ」にまとまっています。この記事を閉じたあとの あなたの時間が、少しでも軽くなりますように。

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