ほんとうはこわい因果の道理——悪い種は、忘れた頃に生えてくる

ほんとうはこわい因果の道理——悪い種は、忘れた頃に生えてくる 仏教

「バレなければいい」が通用しない理由

このブログでは因果の道理を、希望の話として書いてきました。まいた種は必ず生える。だから今日の種まきに意味がある——。

今回は、同じ法則のこわい側の話をします。まいた種は必ず生える。……悪い種も、です。

三時業——果が返ってくる、三つのタイミング

「悪いことをしても、何も起きなかった」という経験は、誰にでもあります。だから人は「因果なんて迷信だ」と思う。でも仏教は、そこまで見抜いた上で、果が返ってくるタイミングには三種類あると教えています。三時業(さんじごう)です。

順現業(じゅんげんごう)——すぐに返ってくる果。暴食すればお腹を壊す。暴言を吐けばその場の空気が凍る。分かりやすい因果です。

順次業(じゅんじごう)——忘れた頃に返ってくる果。若い頃の不摂生が中年の健康診断に出る。適当にした仕事が、数年後の信用に出る。

順後業(じゅんごごう)——完全に忘れた頃、はるか後に返ってくる果。本人が因を思い出せないほど先に、果だけが現れる。

つまり「何も起きなかった」は、正確には「まだ起きていない」なのです。十悪の記事で書いたとおり、誰も見ていない行い(無表業)まで、業はすべて心の蔵(阿頼耶識)に記帳されています。帳簿は消えない。決済日が違うだけです。

時間差が、人を狂わせる

この時間差こそ、因果の道理が「見えにくい」最大の理由です。

もし悪口を言った瞬間に頭上に雷が落ちるなら、誰も悪口を言いません。実際には果が遅れて来るから、人は「セーフだった」と学習し、同じ種をまき続ける。そして順次業・順後業が実る頃には、因を忘れているから、「なんで自分だけこんな目に」と、果を理不尽だと感じる——。他因自果(愚痴)の完成です。世の中の「理不尽」のいくらかは、忘れた種の収穫日なのかもしれません。

では、まいてしまった悪い種はどうするか

ここからが本題です。過去に悪い種をまいた自覚がある(全員あります。私たちは煩悩具足の凡夫です)。もう手遅れなのか?

仏教の答えは明快で、果は「因×縁」だから、縁の側にまだ手が打てるのです。具体的には——

謝る。傷つけた相手に謝ることは、悪因に「和解」という縁を掛けること。果の毒性は大きく変わります。反省する。同じ種を今日からまかないこと。悪因の在庫を増やさない、最も確実な手です。考え方を変える。三業の親玉は意業(心)でした。心の向きが変われば、口と体の種まきが変わり、軌道そのものが変わります。

これを仏教は廃悪修善と呼びます。過去の因は消せません。でも、これから掛かる縁と、これからまく因は、今日の自分が決められる。軌道は、いつからでも戻せます

念のため、良い種の三時業も見ておきましょう。朝の挨拶が、その場の空気を和らげる(順現業)。若い頃の読書が、数年後の転機で効いてくる(順次業)。誰かにかけた何気ない一言が、何十年後に「あの言葉に救われた」と返ってくる(順後業)——。善の帳簿も、同じ精度で記帳されています。忘れた頃に届く果は、悪いものばかりではないのです。

まとめ——こわい話は、やさしい話

三時業は、脅しの教えではありません。よく見てください。この教えは同時に、あなたがまいた良い種も、一粒も無駄になっていないことを保証しています。忘れた頃に返ってくるのは、善い果も同じなのです。

帳簿は正確で、決済は必ず来る。だったら、記帳される中身を良いものにするだけ。今日も良い種をまいていきましょう——帳簿が、ちゃんと見ています。

ところで、逃げられない因果と「他力」は、どう両立するのでしょうか。答えは「因果を破らない」でした。→ 因果から逃げられないのに、なぜ他力が成立するのか

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