「運がいい人」を仏教で分析——上機嫌は、良縁の種まきである

「運がいい人」を仏教で分析——上機嫌は、良縁の種まきである 仏教

運を引き寄せる、という言葉を仏教で

今回の素材は、本田晃一さんの著書に基づく「運を味方につける習慣」。執着を手放す、他力本願を受け入れる、上機嫌を保つ、ギバーになる、褒め言葉を素直に受け取る——。

浄土真宗を土台にするこのブログとしては、見逃せない言葉が二つ含まれています。「他力本願」と「謙遜をやめて褒めを受け取れ」。この二つを軸に、運の正体を仏教で読み解きます。

運=縁。だから、種まきで呼べる

まず「運」とは何か。仏教の言葉に訳せば、縁です。果y = 因a × 縁x。良い出会い、良いタイミング、良いチャンス——自分では選べないこの縁xが、豊かに来ることを、世間は「運がいい」と呼びます。

では縁は、完全にランダムか。そうではありません。果報は寝て待ての記事で書いたとおり、縁は、因を積んだ人の前に、果として現れやすくなる。本書が「上機嫌でいる人に運が来る」と言うのも、これです。上機嫌な人は、笑顔(和顔悦色施)と優しい言葉(言辞施)という良い種を、毎日まいている。その種が、人を引き寄せ、良縁として返ってくる。業界の記事で「不機嫌は職場の空気への出品」と書きましたが、上機嫌もまた出品。運とは、和顔でまいた種の、受け取りなのです。

ギバーになる=布施。ただし、受け取り上手から

本書は「テイカー(奪う人)ではなくギバー(与える人)になれ」と説きます。無財の七施や自利利他で、このブログが繰り返してきたことです。

面白いのは、本書が「最初はテイカーから始めていい」と言う点。恩を受けたら満面の笑みで『ありがとう』と言う——それ自体が立派なギブだ、と。これは慧眼です。仏教でも、笑顔(和顔悦色施)と感謝の言葉(言辞施)は、財のない人にもできる布施でした。受け取り上手は、それだけで与え上手。「苦労して得たものほど手放せない」という執着(慳貪)も、まず自分が満たされ、認められることで、ゆるんでいきます。乾いた人は与えられない。潤った人が、自然にあふれさせるのです。

「他力本願」——世間の誤用と、本当の意味

さて、本書のキーワード「他力本願」。ここは、このブログが正確を期したいところです。

趣味仏教シリーズ第4回で書いたとおり、世間で使われる「他力本願=人任せ」は、実は誤用です。本来の他力とは、阿弥陀仏のはたらき、本願とは、すべてを救うという阿弥陀仏の誓いを指します。

とはいえ、本書の「一人で抱え込まず、人の力を借りよう」という教え自体は、とても健全です。むしろこう言えます——「自分の力だけで全部やり切れる」という自力の傲慢を手放して、他の力を受け取る。この姿勢は、世間的な意味の他力本願であると同時に、本当の他力へ向かう、小さな入口でもある。不完全主義の記事で書いた「自力の完璧主義を手放す」と、地続きなのです。誤用をとがめるより、その先にある本物を指させたら、と思います。

褒めを受け取る=卑下慢を、手放す

本書の「日本人の『いえいえ、そんなことないです』をやめ、褒められたら素直に『ありがとうございます』と受け取れ」——ここで、鋭い読者は引っかかるはずです。仏教は謙虚を尊ぶのでは? 親鸞聖人は自らを愚禿と名乗ったではないか、と。

いい問いです。でも、矛盾しません。仏教には卑下慢(ひげまん)——七つの慢(自惚れ)の一つ——という言葉があります。へりくだりの中にも、慢が隠れるのです。褒め言葉を「いえいえ」と跳ね返すとき、心は「自分は褒められるに値しない」という自己イメージにしがみついている。それはまだ、我が中心にいる状態。一方、素直に「ありがとうございます」と受け取ることは、相手のギブ(褒め)を否定せずに受け取り、相手を立てる行いです。受け取ることのほうが、実は相手本位なのです。

親鸞聖人の愚禿は、卑下ではありませんでした。教行信証の記事で書いたとおり、あれは「賜りものの自覚」——自分の手柄を誇らないと同時に、いただいたものは正直にいただく姿勢です。卑下と謙虚は、似て非なるもの。本物の謙虚は、褒めも素直に受け取れます。

まとめ——上機嫌で、種をまく

運とは縁。縁は、上機嫌という和顔の種から返ってくる。手放し(慳貪を離れ)、受け取り(卑下慢を捨て)、上機嫌でいる(良い種をまく)。本書の運の習慣は、仏教の種まきと、同じ田んぼを耕していました。

運を待つ前に、まず一つ、笑顔を。それが一番まきやすくて、一番よく実る種です。今日も上機嫌で、良い種をまいていきましょう。

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