『悪魔とのおしゃべり』を仏教で分析——壊していい「正しさ」と、壊れない「道理」

『悪魔とのおしゃべり』を仏教で分析——壊していい「正しさ」と、壊れない「道理」 仏教

常識をぶち壊す系譜

今回の「本×仏教」は、さとうみつろうさんの『悪魔とのおしゃべり』。悪魔との対話という形式で、私たちが信じている常識——「正しさ」「所有」「何者かであること」——を片っ端からひっくり返していく一冊です。

実は仏教にも、常識をぶち壊す系譜があります。「仏教で一番大事なものは?」と皇帝に問われて「そんなものはない」と答えただるま大師。水飴を「毒じゃ」と偽った和尚の建前を、そっくり返して撃った一休さん。だからこの本とは、相性がいい。深く同意する部分と、しかしはっきり一線を引く部分——今日はその両方を、正直に書きます。

同意①:所有は、まぼろしである

本書は言います。テーブルに並んだ二つのリンゴが、互いを「俺のものだ」と言えないように、人間関係もただ並んでいるだけ。恋人も家族も、所有はできない。それどころか「自分さえ自分のものではない」——。

これは、仏教の諸法無我そのものです。私という存在は、五つの要素(五蘊)が縁で一時的に束ねられた現象で、固定した所有者はどこにもいない。リンゴが並んでいるという絵は、縁起の見事な比喩です。すべては関係の中に、たまたま今、そう現れているだけ。だから「思い通りにしたい」という執着が、そのまま苦しみになるのでした。

同意②:何者でもない自分は、スタート地点である

「何者かでなければ」という思い込みを捨てよ、失うことは手に入れる前の幸せだった自分に戻るだけだ——本書のこの指摘も、昨日の『50歳からの孤独入門』の記事と同じ地点にあります。肩書きは縁が着せた衣。衣を脱いでも、あなたは消えません。

同意③:「正しさ」の正体は、我慢である

そして本書の核心、「正しさへの執着こそ苦しみの元凶」。これも、このブログはすでに書いています。正義とは何かの記事で書いたとおり、仏教は正義を愛憎違順——自分に従う者を愛し、背く者を憎む、つまり自分の都合——と見抜いていました。

さらに一昨日の七慢の記事とつながります。「我こそ正しい」と我を恃んで驕る心——それが我慢(がまん)という煩悩でした。本書の言う「正しさの縛り」の正体は、仏教語で言えば我慢そのもの。人を裁き、自分を責め、身動きを奪う。ここまでは、完全に同意です。

一線①:「私の正しさ」は捨てる。「道理」は捨てない

さて、ここからが本題です。正しさを全部捨てたら、どうなるか。

仏教は、二つを厳密に分けます。手放すべきは「私にとって都合がいい」という正しさ(愛憎違順)。しかし手放さないものがある——因果の道理です。まいた種は生える。この法則は、誰が信じようと信じまいと、都合とは無関係に働きます。

無分別の記事で書いた原則を、もう一度。人は差別しない。しかし、行いは峻別する。間違いは間違い、正しいは正しい。「正しさなんて幻だ」を「だから何をしてもいい」まで延ばすと、それは自由ではなく、因果への無知(愚痴)です。壊していいのは私の物差し。壊れないのは、道理のほうなのです。

一線②:罪悪感を捨てるな。捨てるのは「二の矢」だ

本書は「罪悪感は、正しさを教わったから生まれる。教わらなければ苦しまない」と説きます。ここは、はっきり異を唱えます。

仏教では、悪を恥じる心——慚愧(ざんぎ)を、立派な徳とします。経典には「慚愧なき者は畜生に同じ」とまで説かれ、親鸞聖人は自らを「無慚無愧のこの身」と嘆きました。慚愧を持てないことを悲しんだのです。罪悪感を丸ごと捨てた人間がどうなるか——それは自由な人ではなく、他人を平気で傷つけられる人です。

ただし、大事な区別があります。慚愧(気づいて、改める)と、自責の反芻(責め続ける)は、別物です。二の矢の記事で書いたとおり、一度気づいて軌道を直せば、それで十分。そこから何年も自分を刺し続けるのは、慚愧ではなく二の矢です。捨てるべきは罪悪感そのものではなく、罪悪感を薪にして自分を焼き続ける行為。この区別があるかないかで、教えは薬にも毒にもなります。

一線③:「誰のせいでもない」の、正しい使い方

本書の「不幸に明確な犯人はいない。誰のせいでもない」——縁起の見方としては、その通りです。物事は無数の縁が重なって起きており、犯人探しは苦しみを増やすだけ。

ただ、この言葉には正しい使い方があります。「誰も悪くないから、何もしなくていい」ではなく、「犯人探しをやめて、自分にできる因に手をつける」。責任とは方向であると書いた記事のとおり、責任は過去の断罪ではなく、未来の舵取りです。誰のせいでもない世界だからこそ、今日の一粒に意味がある——そう使えたとき、この教えは効きます。

まとめ——壊した後に、残るもの

悪魔が壊してくれるのは、私たちを縛る「私の正しさ」——愛憎違順であり、我慢です。それは、壊れたほうがいい。

でも、全部壊れたあとに、壊れないものが一つ残ります。まいた種は生える、という道理です。所有も肩書きも幻でよろしい。それでも、あなたの今日の行いだけは、幻ではありません。壊すものを壊した先で、今日も良い種をまいていきましょう。

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