とんちは、かわいくない
前回の蓮如上人との対決が好評だったので(と勝手に判断して)、一休さんの笑い話、シリーズ化します。第2回は誰もが知る子ども時代の傑作、「このはし渡るべからず」と「水飴は毒」です。
アニメの一休さんは、かわいい小坊主です。でも安心して笑っていられるのは子どもだけ。大人になってからこの二つの話を読み直すと、**自分が撃たれる側にいる**ことに気づきます。
その一:このはし渡るべからず
橋のたもとに立て札が出ています。「このはし渡るべからず」。困る一行の前で、小僧の一休はすたすたと橋を渡り、言い放ちます。
「はし(端)を渡らず、真ん中を歩いてきました」
有名すぎるオチです。でも、この話の急所は「はし=橋/端」の language ゲームではありません。急所はこうです——全員、渡れたのに渡らなかった。
立て札は物理的に人を止めていません。人々を止めたのは、「はし」という言葉と、言葉が呼び出した「渡ってはいけない」という思い込みです。禅には「指月(しげつ)のたとえ」があります。月を指す指を見つめて、月を見ない愚かさ——言葉は実体を指す指にすぎないのに、人は指(言葉)の方に縛られる。一休が破ったのは立て札ではなく、言葉の縄で自分を縛る、人間の癖そのものです。
笑えない話をしましょう。「前例がないので」「普通はそうしないので」「もうこの歳なので」——私たちの人生にも、誰も本当には設置していない立て札が、何本も立っています。あなたが渡っていないあの橋、本当に渡るべからずでしょうか。
その二:水飴は毒
寺の和尚が、水飴をひとりで舐めていました。小僧たちに見つかると、和尚は言います。「これは大人には薬だが、子どもには毒じゃ」。
和尚の留守中、一休は小僧たちと水飴を全部たいらげ、さらに和尚の大切な茶碗を割っておきます。帰った和尚が激怒すると、一休は泣きながら——
「大切な茶碗を割ってしまい、死んでお詫びしようと毒を全部舐めました。でも、死ねません」
これも痛快なオチですが、よく見ると一休は嘘を一つもついていません。嘘をついたのは和尚です。自分の欲(水飴を独り占めしたい)を隠すために「毒」という建前を作った——五欲を、もっともらしい言葉で包んだのです。一休のとんちは、その建前をそっくりそのまま使って、中の欲を白日の下に晒しました。建前という鎧は、建前の論理で刺されると、ひとたまりもないのです。
耳が痛いのはここからです。「あなたのためを思って」「規則だから」「常識的に考えて」——私たちが日常で使う言葉のうち、何割かは和尚の「毒じゃ」と同じ構造をしています。欲や保身を、立派な言葉で包装したもの。仏教で意業(心の行い)が一番重く見られるのは、言葉や行動の包装紙を剥がした中身が、そこにあるからです。
とんちの正体——執着を破る刃
二つの話に共通するもの、それは「言葉と思い込みへの執着を、笑いで破る」という構造です。立て札の話は「言葉に縛られる自分」を、水飴の話は「言葉で本音を包む自分」を撃っています。前回の記事で「笑いは執着を破る技術」と書きましたが、一休のとんちは子ども時代から一貫して、その刃だったのです。
まとめ——自分の立て札を、点検する
今日の宿題はシンプルです。自分の人生に立っている「このはし渡るべからず」の立て札を、一本でいいので点検してみてください。それは本当に禁止なのか。誰が立てたのか。——案外、立てたのは自分自身で、しかも「はし」さえ渡らなければ、真ん中は空いているのかもしれません。

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