独学でITを学んだ、と書いてきました——実際は、よくサボっていました

続いた理由は、意志ではなく場所でした 仏教

ブログ名の由来の回に、こう書きました。

空いた時間にITの勉強を始め、プログラミングに触れ、最初は手入力やローコードから、少しずつできることが増えていきました。

運営者情報にも、「独学でITを学び」と書いています。

読むと、空いた時間にこつこつ積み上げた人に見えます。実際は、よくサボっていました。今日は、その中身を書きます。

最初の一歩は、考えたことでした

最初の一歩は、考えたことです。

人生を逆転するには、収入の高い業界に入ることだ。そう考えました。

当時の私は、アルバイトでした。時間はあります。その時間で勉強しよう、と思いました。

時間はありました。それでも、サボりました

ところが実際は、サボることが多かったのです。

目当ては、はっきりしていました。時間も、ありました。それでも、サボる。「時間さえあれば、やる」は、私の場合、本当ではありませんでした。

続いた理由は、場所を探していたことでした

それでも、やめてはいません。続けられた理由を振り返ると、ITの勉強ができるところを探していたからだと思います。

職業訓練校と、成長産業の分野への転職を支援する事業に、お世話になりました。

訓練校に通っているあいだは、勉強が続きました。

ひとりのときは、サボることが多い。通う場所があるあいだは、続く。同じ人間です。違っていたのは、場所のほうでした。

問題の所在——足りなかったのは、意志でしょうか

勉強が続かないとき、話はたいてい意志のほうへ行きます。意志が弱い。本気ではない。根性が足りない。

けれど、続けられた理由として私に思い当たるのは、意志の強さではありません。場所を探していたことです。

続くかどうかを決めていたのは、意志だったのか。場所だったのか。これが、今日の問いです。

果y=因a×縁xで読むと

このブログの式で読んでみます。

果y=因a×縁x

勉強が身につくことを、果yとします。勉強するという自分の行いが、因a。時間や場所や、教えてくれる人が、縁xです。

式の使い方をまとめた回に、こう書きました。

掛け算は、片方がゼロなら結果もゼロです。

アルバイトのころの私には、時間という縁xがありました。けれど、勉強するという因aのほうが、たびたびゼロになりました。時間がいくらあっても、掛ける相手がゼロなら、果は出ません。

訓練校は、別の縁xでした。通っているあいだ、因aは止まりませんでした。

ただし、その場所を探したのは自分です。距離・時間・速さの回に、条件を変えるという行いも因aのうちに入る、と書きました。今回も、同じ形をしています。

勉強するという因aは、よく止まりました。けれど、勉強できる場所を探すという因aは、出ていました。サボる自分のままで、できることが一つあった。探すことです。

懈怠(けだい)——なまける心には、名前があります

ここで言葉を一つ。懈怠(けだい)です。噛み砕くと、なまけること。やるべきことに励まないこと。六度万行(ろくどまんぎょう)の一つ、精進の反対にあたります。

仏教は、この心を煩悩の側に数えています。心のはたらきを細かく分けた唯識(ゆいしき)という学問では、根本の煩悩から枝分かれした二十の煩悩の一つが、懈怠です。

ここで大事なのは、懈怠が性格の名前ではなく、心のはたらきの名前だということです。煩悩をまるごと備えた凡夫(ぼんぶ)——つまり私のような者の心には、起きるもの。そういう扱いです。

だとすれば、サボる心を消してから始める必要はありません。サボる心があることを勘定に入れて、どこに身を置くかを決めればいい。私がやったのは、結果として、それでした。

もう一つ、精進(しょうじん)。辞典には「気合ではなく、歩みを止めないこと」と書きました。

精進を「毎日欠かさずやること」と読むなら、サボることの多かった私は当てはまりません。「歩みを止めないこと」と読むなら、かろうじて当てはまります。

お釈迦様は、「集まり」を宝に数えました

仏教には、三宝(さんぼう)という言葉があります。仏・法・僧。仏教が宝とする三つです。

このうち「僧」は、お坊さん一人ひとりのことではありません。僧伽(サンガ)——ともに道を歩む人々の集まりのことです。

教え(法)があれば、ひとりでも歩けそうに見えます。それでも仏教は、集まりのほうも宝に数えました。

『相応部(そうおうぶ)』という経典には、こんな問答が伝わっています。弟子の阿難(あなん)が「善き友を持つことは、道の半ばにあたりますね」と言うと、お釈迦様は「そうではない。道のすべてである」と答えられた、というものです。

これは仏道の話で、仕事のための勉強の話ではありません。借りるのは、形だけです。修行でさえ、ひとりの意志ではなく、誰と歩むかが「すべて」とされている。

学校というのは、教える人と、ともに学ぶ人のいる場所です。独学は、教材だけを相手に、ひとりで歩くやり方です。私には、それでは足りませんでした。

「独学で」と書くと、消えるもの

冒頭に戻ります。運営者情報の「独学でITを学び」は、うそではありません。空いた時間に、ひとりで勉強を始めたのは本当です。

ただ、「独学で」とだけ書くと、訓練校と支援事業が消えます。続いた分まで、自分の手柄になります。

式の回には、こうも書きました。

うまくいった時に全部を自分の手柄(a)にすると、次に縁が変わったとき立てなくなります。

ですから、ここに書いておきます。お世話になりました。

まとめ——歯止めを三つ

ひとつ。訓練校に通えば誰でも続く、という話ではありません。私の場合はそうだった、というだけです。公的な職業訓練の相談窓口はハローワークですが、支援事業の名前や中身は、自治体や年度によって違います。

ふたつ。人に「意志が弱い」と言うための話でもありません。その人にどんな縁xがあるのかは、外からは見えません。それに、心や体が動かない時期は、懈怠とは別のものです。私にも、動けなかった時期がありました。そういうときは、休むことと、診てもらうことが先です。

みっつ。場所のせいにしてよい、という話でもありません。掛け算ですから、場所があっても、通わなければゼロです。探すのも、通うのも、自分の行いです。

判定は、こうしておきます。意志を責める前に、場所を探しましたか。

今日も良い種をまいていきましょう。

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