気づいていますか、狂気について——同じことをして、違う結果を待っている

気づいていますか、狂気について——同じことをして、違う結果を待っている 仏教

怖い定義から始めます

アインシュタインの言葉として、世界中で引用されている一文があります。

「狂気とは、同じことを繰り返しながら、異なる結果を期待することである」

先に正直に言っておくと(前回に続き、このブログは引用に厳密です)、この言葉も本人の確実な出典は見つかっていない「伝アインシュタイン」です。でも、誰が言ったにせよ——この定義は、恐ろしく正確です。今回は、この「狂気」を仏教で分析します。

狂気の正体は「因果の否定」である

なぜこれが狂気なのか。因果の道理で書くと一目瞭然です。果y = 因a × 縁x。同じ因を入れ続ければ、同じ果が出る。まけば生える。まかねば生えない。同じ種をまいて違う花を待つことは、この宇宙の仕組みそのものへの反逆です。

ところが、私たちは日常的にこれをやっています。同じ生活をして「痩せないかな」。同じ勉強法で「今度こそ受かるはず」。同じ言い方で怒って「なんで伝わらないんだ」。同じ職場に同じ姿勢で通い「いつか評価されるだろう」——。行動(因)は変えずに、結果(果)だけ変わってほしい。書き出してみると、身に覚えが多すぎて笑えません。

芥川龍之介の見た「狂人のオリンピック」

この構造を、文学の天才は競技場の絵で描きました。芥川龍之介が『侏儒の言葉』に残した一行です。

「人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似ている」

オリンピックなら、ゴールがあります。しかし狂人が主催する大会では、選手たちは同じトラックを、何周も何周も走らされる。どこまで走ってもゴールテープはない——。

仏教の言葉にすると、これは流転輪廻の絵です。以前の記事で、同じ因を入れ続ける人生はグラフが円を描く(=輪廻)と書きました。円運動は、動いているのに、どこにも行かない。トラックを何周しても、景色が同じなのは当然です。コースが円だからです。

では、正気とは何か

狂気の定義をひっくり返せば、正気の定義が出ます。違う結果が欲しければ、違うことをする。それだけです。

ただし「違うこと」は、大転職や引っ越しのような派手な話とは限りません。因は三業——心の行い、口の行い、体の行い。同じ状況でも、解釈を変える(意業)、言葉を変える(口業)、一つだけ習慣を変える(身業)——どれか一つ変えれば、もう「同じことの繰り返し」ではなくなります。円のどこか一点で軌道を変えれば、円は螺旋になる。同じ場所を回っているようで、少しずつ上がっていく。

そしてもう一つ。円を回っていること自体に気づくことが、実は最初の一歩です。仏教が「無明(気づいていないこと)」を苦しみの根に置くのは、気づいていない限り、人は同じ周回を「今度こそ」と走り続けてしまうからです。タイトルの「気づいていますか」は、そういう意味です。

一つ注意があります。「もっと頑張る」は、変化に見えて変化でないことが多い。同じやり方の量を2倍にするのは、同じ円を2倍の速さで回っているだけです。疲労は増え、景色は同じ。変えるべきは速度ではなく、軌道——つまり量(がんばり)ではなく、因の中身(やり方・考え方)です。息を切らして周回している人ほど、この罠に気づきにくいのです。

まとめ——今週のトラックを見下ろす

週に一度でいい、自分の一週間を上空から見下ろしてみてください。同じ不満、同じ後悔、同じ「今度こそ」が、同じ曜日に並んでいないか。

並んでいたら、おめでとうございます。円が見えた人だけが、円から出られます。変えるのは、一点でいい。今日の一周に、昨日と違う種を一粒だけ。

そして、円から出るにはズレの種類を見分ける必要があります。同じ「失敗」でも、打つ手が正反対になる二種類があるという話を、別記事に書きました。→ 失敗そのものは、存在しない

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