すぐ怒る人に、自分から話しかけてみました——スーパーで試した無財の七施

自分から、話しかけてみました 仏教

スーパーで働いていたころ、職場に、すぐ怒る人がいました。言葉もあまり良くない。職場でいちばん嫌われていた人です。

その人に、仏教で学んだことを試してみました。仏教を学びはじめたきっかけの回に一行だけ書いた話の、中身です。

「本当に困っている人を雇う」店でした

先に、その職場のことを書いておきます。

当時の私は、心を病んで動けなくなった時期のあと、少しずつ働きはじめたところでした。そのスーパーの店長は、こう言っていました。

うちは本当に困っている人を雇う。大した仕事はしていないから

私の状況には、合っていたと思います。いつまでも居てはいけないとは思っていましたが、感謝しています。

試したのは、無財の七施です

ここで言葉を一つ。無財の七施(むざいのしちせ)です。噛み砕くと、お金や物がなくてもできる、七つの施しのこと。『雑宝蔵経』に説かれています。七つの中身は無財の七施の回にまとめました。

私が試したのは、そのうちの二つです。

言辞施(ごんじせ)——やさしい言葉をかけること。私の場合は、自分から話しかけることでした。

身施(しんせ)——体を使ってできることをすること。重い物や、面倒な作業を引き受けました。決まった形があったわけではなく、その場でできることをした、というくらいです。

その人とは、比較的仲良くすることができました。

何が起きたのか——私の見立て

自分から話しかけることで、その人の「他人と関わりたい」という気持ちを満たせたのかな、と思っています。

ただ、これは私の見立てです。本当のところは、本人にしか分かりません。

果y=因a×縁xで読むと

このブログの式、果y=因a×縁xで読んでみます。

その人がすぐ怒るという果yには、その人の因aと縁xがあります。私には、どちらも見えません。見えているのは、怒っているという果yだけです。

だから「ああいう性格だから」と、その人の因aを言い当てることはできません。動かすことも、できません。

私にできたのは、一つだけでした。その人にとっての縁xの一つになることです。自分から話しかけてくる人が一人いるかどうかで、同じ人でも、置かれた条件は変わります。

自分の因aは、相手にとっての縁xになる。布施とは、この向きで種をまくことだと、私は受け取っています。

言葉の荒い人に、言葉を合わせない

すぐ怒る人の前では、こちらも身構えます。言葉が荒い人には、同じ調子で返したくなる。それがふつうです。

言辞施は、その逆をやることでした。相手の言葉がどうであっても、こちらが出す言葉は、こちらが決める。口の行いを仏教では口業(くごう)と呼びますが、相手の口業に、自分の口業を合わせなくていい、ということです。

我慢とは、向きが違います

これを「嫌な人に我慢して合わせた話」と読むこともできます。けれど、布施と我慢は、向きが逆です。

我慢は、相手から来たものを受けて、こらえること。我慢の回で書いたとおり、フタをしているだけなので、いつか飛びます。布施は、こちらから先に出すことです。受ける側に立つか、出す側に立つか。同じ職場で同じ人と向き合っていても、立っている場所が違います。

もらう側だった、という話

振り返ると、あの店長がしていたことも、七施の一つでした。房舎施(ぼうしゃせ)——居場所を与えること。「本当に困っている人を雇う」は、その現代版だと思います。

私は、もらった側でした。無財の七施の回に、親切の受け手は、次の出し手になりやすいと書きました。そのとおりの順番を、自分がたどっていたことになります。

まとめ——歯止めを三つ

ひとつ。相手を変える方法ではありません。仲良くなれたのは、結果です。それを狙って話しかけはじめると、布施ではなく取引になります。「私が」「誰に」「何をしたか」を忘れる——三輪空(さんりんくう)が、布施の心得とされるのはそのためです。

ふたつ。怒鳴られて苦しい人に、「布施をしなさい」とは言いません。身の危険や、眠れないほどのつらさがあるなら、離れること、相談することが先です。私の場合は、仕事をテキパキこなしていたので、周りからは良く見られていました。そういう足場がない場所で、同じことをする必要はありません。

みっつ。その人を評価する話でもありません。なぜ怒るのかは、本人にしか分かりません。私が書けるのは、自分が何をしたか、だけです。

判定は、こうしておきます。その人に、今日、自分から何を出しましたか。

今日も良い種をまいていきましょう。

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