仏教語→現代語 翻訳辞典——この76語がわかれば、仏教はだいたい読める

仏教

仏教が難しく感じる最大の理由は、言葉です。中身は身近な話なのに、用語が漢字だらけで入口が高い。

そこで、このブログで繰り返し使ってきた言葉を現代語に翻訳してまとめました。各項目に詳しい記事へのリンクを付けてあります。気になる語だけ拾い読みしてください

■ 因果まわり——世界のしくみ

因果(いんが)=原因と結果。まいた種が生える、それだけのこと。罰ではありません。このブログの式 果y=因a×縁x は、これを書き直したものです。

数の自然(すうのじねん)=『大無量寿経』の一句。善悪報応し、禍福あひ承けて、身みづからこれに当る。たれも代るものなし。数の自然なり仏教には裁く神がいません。それでも報いがあるのは、誰かが決めているからではなくおのずからそうなる仕組みだからです。

縁(えん)=結果を生むための、外から来る条件。自分では選べない部分。種があっても、水と光がなければ芽は出ません。

縁起(えんぎ)すべては関係の中でだけ成り立っている。独立した実体は存在しません。だから「誰にも頼らない自立」は原理的に不可能で、依存先を分散させることが現実的な自立になります。

増上縁(ぞうじょうえん)=他人の力を引き出す側の縁。太陽は種になり代われないが、太陽がなければ種は芽を出さない

自業自得(じごうじとく)「ざまあみろ」ではありません。自らの業は自らが得る、というだけの記述。悪口が自分に返るのも、これです。

意業(いごう)心で思っただけのことも、業になる。身業・口業と並ぶ三業の一つで、法律と決定的に違う点です。頭の中の独り言は、無意識のうちに続けている種まきでした。

宿業(しゅくごう)=生まれつき配られていた初期値。現代語なら「才能」や「気質」に近い。

■ 苦しみまわり——なぜしんどいのか

不浄観(ふじょうかん)=肉体が朽ちていく過程を観じる修行。美しさを憎むためではなく、美しさも留まらないと確認するため。今きれいな人も、そうでない人も、同じ土俵にいます。

老少不定(ろうしょうふじょう)老いた者が先に、若い者が後に死ぬとは決まっていない。蓮如上人『白骨の御文章』の「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」が有名です。

無常(むじょう)すべては変わり続ける。悲観ではなく観測事実です。悪いことも続かない、が同時に含まれます。→ 人間万事塞翁が馬

有為(うい)/無為(むい)有為は因と縁によって作られたもの(現象・出来事)、無為は作られたのではないもの。「諸行無常」の「諸行」は原語をたどると有為とほぼ同じ語で、正確には「作られたものは移り変わる」という意味です。すべてが無常なのではなく、因果の道理そのものは移り変わりません

苦悩の根元(くのうのこんげん)=仏教が立てる人生の目的は「苦しいことを無くす」ではなく、苦しみを生み出している根っこを断ち切ること。その根っこが無明の闇です。目的が「生きること」の外に立つので、「生きるために生きる」という循環に落ちません

生死(しょうじ)=「せいし」ではなく「しょうじ」。生まれ変わり死に変わりを繰り返す迷いの世界そのものを指します。禅堂の板に刻まれた生死事大(しょうじじだい)は「今日を大切に」ではなく、この生死を離れることが一大事だという意味でした。

無有代者(むうたいしゃ)=『仏説無量寿経』の独生独死独去独来(どくしょうどくし どっこどくらい)に続く一句。その身がみずから受けるのであって、代わってくれる者は無い。孤独とは話し相手がいないことではなく、代わってくれる者がいないことだ、という指摘です。

一切皆苦(いっさいかいく)=すべては苦である。ただし「すべてが痛い」ではありません。原語ドゥッカの語感は「思い通りにならない」。悲観ではなく、観測結果です。

渇愛(かつあい)/善法欲(ぜんぽうよく)=苦の原因とされる欲が渇愛(原語タンハー=渇き)。一方で良くなろうとする欲=善法欲は肯定されます。仏教は欲を全部消せとは言っていません。見分け方は「選択肢が増えるか、減るか」。

愛執(あいしゅう)/十二因縁(じゅうにいんねん)自分のほうへ引き寄せて離すまいとする愛が愛執。十二因縁では

方便(ほうべん)=『法華経』の三車火宅の譬えが出どころ。火事の家から子を出すため、父が外に車があると告げた話です。「うそも方便」は誤用で、方便が成り立つのは①自分に得がなく②誰も傷つかないときだけ。自分の得が一滴でも混じれば、ただの妄語です。

執心(しゅうしん)離れがたく思い続ける心。恐ろしいのは、捨てるという行為すら執着の対象になることです。鴨長明は『方丈記』の結びで、質素な庵を愛している自分自身を「これも罪ではないか」と裁きました。持たない自分が好き、も執心です。

執着(しゅうじゃく)変わるものを、変わるなと握ること。苦しみの正体はここです。

慳貪(けんどん)=もの惜しみ+むさぼり。仏教はケチと浪費を、同じ煩悩の裏表として扱いました。どちらもお金に心を握られているからです。

名聞利養(みょうもんりよう)名聞=名声を求める心、利養=利益を求める心。人を動かす二大エンジンとして、昔から警戒されてきました。豊臣秀吉は両方を極め、死後は神にまで祀られながら、崩れた大仏に弓を引いたと伝わります。

煩悩(ぼんのう)=欲・怒り・妬みなど、心をかき乱すはたらき。消す対象というより、標準装備として扱うのが浄土仏教です。

二の矢(にのや)起きた出来事(一の矢)に、自分で足す怒りや後悔。一の矢は他人が射ますが、二の矢はいつも自分が自分に射ています。

六道(ろくどう)=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天。死後の場所ではなく、今日の心の状態として読むのがこのブログの流儀です。満たされない渇きが餓鬼、他人と比べる勝負心が修羅。→ 『熔ける』を六道で読む

■ 生き方まわり——どうすればいいのか

修羅(しゅら)=六道の一つ、争いの世界。恐ろしいのは怒りではなく「勝っても終わらない」こと。年収で勝てば次は肩書き——比較の土俵にゴールはありません。

三種の長者財の長者・身の長者・心の長者。財産・健康・心の順で、財だけでは長者と呼ばないという段階分けです。

六度万行(ろくどまんぎょう)=菩薩の六つの実践。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧。それぞれに反対語があり、10年後の果報が正反対に分かれます。

知恩・感恩・報恩(ちおん・かんおん・ほうおん)気づく・感じる・行動する。頭・心・体の三段です。反対は忘恩・背恩・逆恩(忘れる・背く・害する)。

四恩(しおん)=父母・すべての人・社会・仏法から受けている恩。どれも返済不能なので、報恩は「返済」ではなく次へ送る生き方になります。

布施(ふせ)=与えること。お金は一円も要りません。笑顔も席も、優しい言葉も布施です(無財の七施)。

捨身(しゃしん)=自分の身を投げ出して他を救うこと。『法華経』の薬王菩薩が身を焼いて供養した話などが代表で、宮沢賢治「蠍の火」もこの系譜です。ただし浄土真宗は捨身を勧めません。凡夫にはできないと見るからで、それは「できなかった人を責めないため」でもあります。

三輪清浄(さんりんしょうじょう)=布施が本当に成り立つ条件。施者(与える人)・受者(受け取る人)・施物(与えたもの)の三つすべてに執着がないこと。「してあげたことを忘れる」とは記憶力の話ではなく、この三つを握り続けないことでした。

愛語(あいご)=やさしい言葉をかけること。道元禅師いわく「愛語よく回天の力あり」——天を回すほどの力がある。

忍辱(にんにく)我慢とは別物。我慢は怒りにフタをすること(いつか飛ぶ)。忍辱は火に燃料を渡さないこと(そもそも溜まらない)。

中道(ちゅうどう)=極端を避けること。張りすぎた琴の弦は切れ、緩すぎた弦は鳴らない。→ 欲の引き際と、お釈迦様の中道

遊戯三昧(ゆげざんまい)=とらわれず自在に、それでいて没入している境地。仏教は「遊び」を修行の対義語にしていません。守るものがない人ほど、自然に遊べます。

托鉢(たくはつ)=財産を持たず、食を人からいただく実践。恵んでもらう行為ではなく、布施の機会を相手に差し出す行為と考えます。だから僧は礼を言わない作法もあります。

精進(しょうじん)=気合ではなく、歩みを止めないこと。お坊さんはやる気ではなく、仕組みで動いています。

放下著(ほうげじゃく)=捨ててしまえ。ただし「捨てられる自分」という自慢も捨てよ、という二段構え。

摂受(しょうじゅ)・折伏(しゃくぶく)=人を導く二つの道。折伏は誤りを正面から破る厳しい道、摂受はいったん受け入れて穏やかに向き直らせる道です。『勝鬘経』は相手を見て使い分けよと説きます。自分自身に対しても、同じことが言えます。

晨朝(じんじょう)=一日を六つに区切って勤める六時礼讃のうち、夜明けの時間帯。寺では今も朝いちばんのお勤めを晨朝勤行と呼び、門徒の家庭ではお朝事(おあさじ)といいました。朝がいちばん大事だから朝に座る、という考え方です。

知恩報徳(ちおんほうとく)恩を知り、その恩に報いること「まず知る、それから報いる」の順番が要点で、気づいていない恩には報いようがありません。

一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)=『華厳経』の言葉で「一切は唯(ただ)心の造るところ」。同経に「三界虚妄、但是一心作」ともあります。心が作るとされるのは「三界=迷いの世界」のほうで、事実そのものではありません。心を変えれば現実が変わる、という意味ではない点が要注意です。

三性(さんしょう)/無記(むき)=行いを善・悪・無記の三つに仕分ける見方。無記は善とも悪とも記録できない行いで、良い果報も悪い果報も生みません。さらに無覆無記(道を覆わない、意図した休息など)と有覆無記(何も生まないうえに本当にやりたいことを覆い隠す)に分かれます。

等流果(とうるか)因と同じ性質の果が、流れ続けること。同じ行いは同じ結果を生み、繰り返すほど勢いを増します。同じ出来事が何度も起きるときは、1回ずつではなく流れとして見るのがこの語の使いどころです。

顛倒(てんどう)ものごとを逆さまに見ること。凡夫がやりがちな逆さまを四つに絞ったものを四顛倒といい、常・楽・我・浄——移り変わるものを変わらないと見、苦であるものを楽と見る——を指します。

他因自果(たいんじか)他人がまいた種の実を、自分が受け取るという見方。仏教はこれを認めず、自因自果——種と実は同じ人の中でつながる——を説きます。縄を恨む泥棒——盗んで縛られた人が縄だけを恨む——のたとえで説かれます。

■ 心と智慧まわり——仏教の見取り図

慈悲(じひ)抜苦与楽。苦を抜き(悲)、楽を与える(慈)。苦を抜くには原因を見抜く智慧が要るので、仏の優しさは甘くありません。

和光同塵(わこうどうじん)/三十三応現身(さんじゅうさんおうげんしん)和光同塵は光を和らげて塵に同ずること。仏や菩薩が本来の智慧を隠し、近寄りやすい姿で現れる。三十三応現身は観音菩薩が相手に応じて33の姿に変わること(『法華経』普門品)。姿を変えるのが応現身、向きを変えるのが八方美人です。

三縁の慈悲(さんえんのじひ)=慈悲の三段階。①衆生縁=相手を見て起こる凡夫の慈悲(小悲)、②法縁=無我をさとった聖者の慈悲(中悲)、③無縁=仏だけが持つ、対象を選ぶことのない慈悲(大悲)。「無縁」は縁が無いのではなく、縁に依らないという意味です。

無我(むが)「私」という独立した司令塔はいない。あるのは条件の集まり(五蘊)だけ。→ ナヴァルから無我へ

両忘(りょうぼう)=禅語。善悪・優劣・勝ち負けなど相対する二つを、どちらも忘れること。「どっちつかず」ではありません。どっちつかずは枠の中で踏ん張っている状態、両忘は枠そのものを降りる状態です。「評価しないぞ」と決めるのも、まだ評価です。

戯論(けろん)=原語パパンチャ。「概念増殖」とも訳されます。言葉と理屈で世界を組み立てるうちに、それ自体が勝手に増えていく心の働き。好き嫌いから出る愛論と、偏った見方から出る見論があります。仏典は「戯論は病の元」と言い切り、『中論』は因縁(縁起)を説いて戯論を滅すとします。

我他彼此(がたぴし)我と他、彼と此。自分とあの人、こちらとあちらを切り分けて対立させる心。建て付けの悪い戸がきしむ「ガタピシ」の語源とも言われます。差別とは、我他彼此が制度になったものです。

薫習(くんじゅう)香りが衣に移るように、行いが心の奥に染みついていくこと。繰り返した行為が種となって蓄えられます。現代語の「脳の回路ができる」に近い仏教語です。

習気(じっけ)薫習によって染みついた、残り香のほうのくせ。いわゆる性格です。因ではなく果なので、行いを変えれば上書きできます。雑な人が雑さを気にした瞬間から、几帳面が始まります。

不放逸(ふほういつ)=『法句経』に章の名として立てられた語。原語パマーダ(放逸)には「酔い」の意味があり、不放逸とは酔わずに気づいている状態。単なる「怠けるな」ではなく、解脱の道とされます。誰も見ていない場面での一回が、ここに入ります。

阿頼耶識(あらやしき)=心の最深層。行いが種として貯蔵される蔵。現代語の「潜在意識」に一番近い仏教語です。

八正道(はっしょうどう)=苦を滅する八つの実践(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)。ただし、このブログでは「救いの条件」としては扱いません。理由は

念(ねん)口で唱えることではなく、心に思い浮かべること。念仏の原義は「仏を心に思い描く」でした。「あの人ならどうするか」と考える技法と、構造は同じです。

三宝(さんぼう)/僧伽(サンガ)=仏教が宝とする三つ、仏・法・僧。「僧」はお坊さん個人ではなく共に道を歩む人々の集まりのこと。分裂させることは五逆罪に数えられます。

善知識(ぜんぢしき)=正しい道へ導く友。お釈迦様は「善き友を持つことは道の半ばではなく、すべてである」と説かれました。生きている人に限らず、経典や歴史上の人物でも構いません。

四依(しえ)/依法不依人(えほうふえにん)=『涅槃経』の、教えを受け取るときの4基準。筆頭が「法に依りて人に依らざれ」——誰が言ったかではなく、何を言っているかで判断せよ。その人がいなくなったら崩れる組織は、最初から法ではなく人に依っています。カルト対策としてそのまま使えます。

随喜(ずいき)他人の幸福を、我がことのように喜ぶ心。四無量心(慈悲喜捨)の「喜」。嫉妬の正反対で、訓練して育てる能力とされます。

有り難い(ありがたい)有ることが、難しい。感謝の反対語は「当たり前」でした。

転悪成善(てんあくじょうぜん)=悪を転じて善と成す。「滅」ではなく「転」——消すのではなく、向きを変えることです。氷は消えず、溶けて水になります。

他力(たりき)他人任せではありません。自分の力で届く範囲の外から、はたらきかけられていること。「全部やる」をあきらめた先に出てくるものです。

たのむ(憑む)=蓮如上人『御文章』の「弥陀をたのめ」の「たのむ」。現代語の依頼の「頼む」ではなく、あてにする「憑む」です。頼むには見返りの計算がありますが、憑むにはありません。差し出すものも要求するものもなく、ただよりどころにしてまかせきること。

自力のはからい(じりきのはからい)自分の計算で何とかしようとする心。真宗が捨てよと言うのはこれで、努力そのものではありません。『老人と海』のサンチャゴが「あの子がいてくれたら」と漏らしながら毎回「俺は一人だ」と打ち消すのが、その姿です。頑張ったまま、受け取っていい

親鸞一人がため(しんらんいちにんがため)=『歎異抄』後序の一節。弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。本願はすべての人に向けられたものなのに、それを「私一人のためだった」と受け取った言葉です。自分が選ばれたという意味ではありません——続きは「そくばくの業をもちける身にてありけるを」、つまりこれほど業の深い者を、と驚いているのです。みな凡夫で例外はなく、違うのは他人事にせず名指しで受け取ったかどうかだけ。

厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)=源信『往生要集』冒頭の八文字。この穢れた世を厭い離れ、浄土を欣び求めよ。徳川家康が旗印にしたことで有名ですが、家康は「穢土=戦乱/浄土=平和」と、来世の話をこの世の政治目標に読み替えています。本来は二階の言葉です。

凡夫(ぼんぶ)/煩悩具足の凡夫=煩悩をまるごと備えた、ふつうの人間。他人を指す言葉としては使いません。親鸞聖人が凡夫と言うとき、指しているのは自分です。

悪人正機(あくにんしょうき)「悪いことをした人ほど救われる」ではありません。ここでの善人=自力で救われようとする人、悪人=自力ではどうにもならないと知った人。両手が空いている人にしか渡せないという話です。

聴聞(ちょうもん)=教えを、何度でも聞くこと。一度で終わらないのが前提。二度目は「これはあの時の話だ」と答え合わせが起きるので、深く入ります。

懺悔(さんげ)/慚愧(ざんぎ)=仏教では「ざんげ」ではなく「さんげ」。決定的なのは仏の前でするものだという点で、相手が人間だと告白は相手を傷つけますが、仏の前なら誰も傷つきません。は自分に、は他人に恥じること。『涅槃経』に「慚愧なきものは名づけて人とせず」とあります。

聞思修(もんししゅ)/三慧(さんえ)=智慧の三段階。聞慧=聞いて得る、思慧=考えて得る、修慧=実践して体で得る。知っていることと、できることは別だと仏教が最初から分けていた、ということです。

まとめ——76語で、たいてい足ります

お経に出てくる言葉は膨大ですが、日常を読み解くのに使うのは、だいたいこの範囲です。そして気づかれたでしょうか。どの語も、特別な修行の話をしていません。握らない、溜めない、与える、続ける、聞き直す——全部、今日できることです。

言葉が難しかっただけで、中身はずっと身近な話でした。今日も良い種をまいていきましょう。

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