『ナヴァルから無我へ』 ― ナヴァルから始まった哲学対話8

『ナヴァルから無我へ』 ― ナヴァルから始まった哲学対話8 仏教

第8回 自と他を分けない世界

人は、自分と他人を鋭く区別する。

私の身体、私の感情、私の考え。ここまでが「私」で、そこから先は「他者」だ。この区別は日常生活において当然のことであり、必要なことでもある。

しかし、この境界線は、思ったよりずっと曖昧なのかもしれない。

今朝、私が食べた朝食を考えてみる。米を作った農家がいる。それを運んだドライバーがいる。加工した工場の人がいる。販売した店員がいる。その背後には、種を研究した科学者、農業を支えたインフラ、雨を降らせた空がある。

私が今、生きていることの背景には、数えきれない人々の労働と、自然の恵みと、歴史の積み重ねがある。

「私一人の力で生きている」というのは、かなり無理のある話だ。

仏教の縁起の考えでは、すべての存在は相互に依存して生じると言う。独立して存在するものは何もない。すべては関係の網の中にある。

これは哲学的な話に留まらない。

現代の科学も、似たことを示している。生態系は、無数の生物が互いに影響し合いながら成立している。一つの種が絶滅すれば、連鎖的に他の種にも影響が出る。気候変動は、地球の裏側の誰かの生活を変える。インターネット上の情報は、見知らぬ誰かの考えを変える。

私たちは、思っている以上につながっている。

では、そのことが腑に落ちたとき、何が変わるのか。

一つは、感謝が自然に湧いてくることだと思う。誰かに食事を作ってもらったとき、誰かが道を譲ってくれたとき、誰かの言葉に助けられたとき。「あ、またつながりの中で生かされている」という感覚が、日常の小さな瞬間を豊かにする。

もう一つは、孤独感が和らぐことだ。「自分だけが苦しい」「自分だけが取り残されている」という感覚は、自他の境界を強く引いているときに起こりやすい。しかし、すべてがつながっていると感じられると、完全な孤立はあり得ないことに気づく。

そして三つ目は、他者への攻撃が減ることだ。他人を傷つけることは、ある意味で自分を傷つけることでもある。なぜなら、私たちは同じ世界の中に生きているからだ。誰かの苦しみは、巡り巡って世界全体に影響する。

「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉がある。これは理想論ではなく、現実の構造を正確に言い表しているのかもしれない。

自と他を分けないことは、自分を消すことではない。むしろ、自分というものの範囲が、思っていたよりずっと広いことに気づくことだ。

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