第7回 自我という幻想
「自分らしく生きる」
現代では、これが一つの理想とされている。自分の個性を大切に、自分の気持ちに正直に、自分だけの人生を生きる。それ自体は美しい考えだ。
しかし、ふと立ち止まって問いたくなる。
「自分らしさ」の「自分」とは、いったい何なのか。
前回、「無我」について触れた。固定された自我は存在せず、人は縁によって一時的に生じる現象だという仏教の考えだ。これをもう少し掘り下げてみたい。
私たちが「自分」と感じているものは、大きく二つに分けられる。
一つは、「小さな自我」。日常的な自分の感覚だ。名前があり、職業があり、好みがあり、記憶があり、感情がある。この「私」は確かに存在するように感じられる。
もう一つは、それを観察している「何か」だ。怒っている自分を、どこかで眺めている自分がいる。落ち込んでいる自分に気づいている自分がいる。この「観察する意識」は、感情や思考とは少し違う場所にある。
禅の修行では、この二つの区別を深めていく。日常的な自我に振り回されるのではなく、それを静かに観察できる場所に立つ練習だ。
しかしここで、さらに問いが深まる。
観察している「私」も、また縁によって生じたものではないのか。
心理学者のダニエル・カーネマンは、人間には「経験する自己」と「記憶する自己」があると言った。実際に体験している瞬間の自分と、後から物語として記憶を編集する自分は、必ずしも一致しない。休暇の最後に嫌なことがあると、その旅全体が「楽しくなかった」と記憶されることがある。私たちが「自分の人生」と思っているものは、実は「記憶が編集したストーリー」なのかもしれない。
つまり、自我とは、ある種の物語だ。
無数の体験、感情、記憶が集まり、「これが私だ」という物語が形成される。その物語は便利だ。一貫した「私」がいることで、人は社会の中で機能できる。約束を守り、責任を持ち、他者と関係を結ぶ。
しかし、その物語に縛られすぎると、苦しくなる。
「私はこういう人間だから」という思い込みが、変化の可能性を閉じる。「あの人はああいう人だから」という固定化が、関係の可能性を狭める。自我という物語は、人を守ることもあれば、人を閉じ込めることもある。
自我を完全に手放すことはできないし、する必要もない。しかし、自我という物語が「物語に過ぎない」と知ることは、大きな自由をもたらす。
物語は書き換えられる。私は変われる。そして、他者もまた変われる。


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