『ナヴァルから無我へ』 ― ナヴァルから始まった哲学対話9

『ナヴァルから無我へ』 ― ナヴァルから始まった哲学対話9 仏教

第9回 責任とは参加することである

「責任を取る」という言葉は、重い響きを持つ。

失敗したとき、「誰の責任か」が問われる。謝罪し、頭を下げ、制裁を受ける。責任とは、罰を引き受けることのように語られることが多い。

しかし、私はこの「責任」という概念を、もう少し広い視野で捉え直したいと思うようになった。

まず、責任とは何のためにあるのか。

社会が機能するために必要だ、という答えがある。誰かが悪いことをしたとき、責任の所在を明確にすることで、再発を防ぎ、被害者が救われる。これは正しい。

しかし、それだけが責任のすべてではないと思う。

私が注目したいのは、責任の「未来への向き」だ。

何かが起きたとき、「誰のせいか」を問うことは過去を向いている。しかし、「これからどうするか」を問うことは未来を向いている。本当の責任とは、後者ではないかと思う。

ここで、先に触れた「縁」の話に戻る。

成功も失敗も、自分一人の力で生まれているわけではない。才能は縁によって育まれ、機会は縁によって与えられ、結果は縁によって決まる部分が大きい。そう考えると、「すべては私のせいだ」と抱え込むことも、「すべては環境のせいだ」と開き直ることも、どちらも正確ではない。

では、私に帰属するものは何か。

それは「方向」だと思う。

与えられた縁の中で、どこへ向かうかを選ぶこと。目の前の状況に、どう関わるかを選ぶこと。流れの中で、どう参加するかを選ぶこと。

責任とは、所有権ではなく、参加することだ。

結果を所有することはできない。しかし、今この瞬間の選択に、誠実に参加することはできる。それが、私が考える責任の本質だ。

これは、自由意志の問題とも深くつながっている。人間に完全な自由意志があるかどうかは、哲学上の難問だ。しかし、少なくとも「次の一手を選ぶ感覚」は、私たちに与えられている。その感覚に従って選び続けること。それが責任ある生き方なのかもしれない。

もう一つ、責任について思うことがある。

責任を引き受けることは、人を強くする。

「何も自分では決められない」「誰かに言われた通りにしているだけ」という状態は、一見楽に見えて、実は深い無力感を生む。責任を引き受けるとき、人は自分が世界の一部として参加していると感じられる。それは、生きることへの主体感につながる。

参加する。関わる。向き合う。選ぶ。

それが責任であり、それが生きることそのものなのかもしれない。

責任は、過去ではなく未来を向いている

最後に、責任という言葉の向きについて書いておきたい。

世間で「責任を取る」と言うとき、たいていは過去を向いている。誰のせいか。どこで間違えたか。誰が謝るのか。もちろん、それが必要な場面はある。だが、そこで終わると、人は前に進めない。

私がこの回で書いた責任は、逆向きだ。これからどこへ向かうかを、自分で選び続けること。過去は変えられないが、方向はいつでも選び直せる。責任とは、罰ではなく舵なのだ。

そしてこの見方は、自分を責め続けている人にとって、たぶん一番の救いになる。起きてしまったことの全責任を背負う必要はない。縁の中で起きたことだ。ただ、これから何をするかは、あなたが決めていい。決められる、ということ自体が、すでに自由なのだと思う。

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