タイトルで9割言い切った本
今回の「本×仏教」は、しんめいPさんの『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』です。東洋哲学をここまでゆるい言葉で語り切った本は珍しく、大ヒットも頷けます。タイトルの時点で、仏教の核心(無我)を言い切っているのが潔い。
本書はブッダ、だるま大師、空海という三人を軸に進みます。このブログの言葉と突き合わせながら、順に見ていきます——そして最後に、この本がこのブログ自身に突きつけてくる刃の話をします。
ブッダ——「自分」は、借り物の寄せ集め
本書の無我の説明は、こうです。体は食べた物(自分以外のもの)でできている。鳥は虫を、虫は草を、草は水と太陽を——たどれば全部、世界からの借り物。心も同じで、カレーの写真を見て「食べたい」と湧く思いは、外からの刺激が起こした現象であって、自分が作ったものではない——。
哲学対話の第4回「私とは何か」で書いたことと、完全に同じ場所です。私とは、縁が一時的に束ねられた現象(川の流れ)。だから固定した自分を守ろうとする(流れを石でせき止める)ことが、苦しみになる。本書がすごいのは、この話を「20代の自分に固執すると老いが苦しみになる」という誰の身にもある例まで、一気に降ろしてくることです。老苦の記事で書いた「気持ちは17歳」問題への、無我からの回答でもあります。
だるま大師——言葉を捨てろ
次が禅の祖・だるま大師。皇帝に「仏教で一番大事なことは?」と問われ、「そんなものはない」と答えた人です。不親切なのではありません。「大事なこと」と言葉で定義した瞬間、それは本物ではなくなる——不立文字(ふりゅうもんじ)、言葉では立てられない、という禅の核心を、そのまま突きつけたのです。
話が通じなかっただるま大師は、宮殿を去り、洞窟の壁に向かって9年間座り続けました(面壁九年)。言葉で伝わらないなら、沈黙の背中で伝える——この常軌を逸した姿に人が集まり、禅は中国全土へ広がっていきます。一休さんの回で書いた「指月のたとえ」を思い出してください。言葉は月を指す指にすぎない。だるま大師は、指を折り捨てて、9年間、月だけを見続けた人でした。
さて——このブログへのブーメラン
ここで、正直に白状しなければなりません。このブログは、言葉だらけです。因果の道理を数式にして、六道を分類して、毎朝2000字書いている。禅から見れば、指を磨き続けて月を見ていない典型かもしれません。「言葉を捨てろ」という教えを、言葉で解説している矛盾——このブーメランを、どう受けるか。
私の答えはこうです。言葉は、捨てる前に、まず登るための梯子(はしご)として使う。お釈迦様自身、生涯にわたって膨大な言葉で説法を続けました(八万四千の法門)。相手に合わせて言葉を尽くす対機説法の人です。言葉を尽くして連れて行き、最後の一段で「ここから先は言葉じゃない」と梯子を外す——ブッダの言葉も、だるまの沈黙も、同じ山の別の区間を担当しているのだと思います。そもそも「言葉を捨てろ」も言葉です。だるま大師は、その矛盾ごと背負って座った。だからこのブログも、開き直って言葉を尽くします。ただし、読み終えたあなたが画面を閉じて、言葉のない現実で一粒まくところまでが、記事の完成です。
空海——欲望と現実の肯定
三人目の空海が伝えた密教は、欲望や現実を否定せず、全体との繋がり(マンダラ)の中で他者のために動くことを説きます。自分は宇宙の巨大な調和の一部——その感覚に気づけば孤独から解放され、他者のために動くうちに「自分」の感覚が薄れていく、と。
これは先日の「欲望は乗り物」の記事と、きれいに響き合います。欲を消すのではなく、向きを変えて、繋がり全体のために使う。自利利他の方向へ走り出したエンジンは、走っているうちに「誰のためか」の境界が薄れていく——無我へ至るルートは、坐禅だけではないのです。
まとめ——山頂は一つ、登り口は三つ
ブッダは理屈で「自分」を解体し、だるまは言葉ごと捨て、空海は繋がりの中に溶かした。三人三様に見えて、外そうとしたものは同じ——「自分」という執着です。
あなたに合う登り口から登ればいい。そしてどの口から登っても、山頂の景色は同じだと、三人が保証してくれています。今日も良い種をまいていきましょう——「誰が」まいたかは、だんだん、どうでもよくなっていくはずです。

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