鬼は「遠仁」と書く——本当の鬼は、心の中にいる

鬼は「遠仁」と書く——本当の鬼は、心の中にいる 仏教

鬼という字の、もう一つの顔

鬼は「遠仁(おに)」と書く——そんな説明が、仏教の世界にはあります。

仁(じん)から遠い、という意味です。仁とは、思いやり・慈しみの心のこと。儒教では人として最も大切な徳とされ、仏教の慈悲にも通じる言葉です。つまり鬼とは、角の生えた怪物のことではなく、思いやりから遠ざかった状態を指しているのです。

そう考えると、鬼の見え方が変わってきます。

鬼は、外にいない

節分では「鬼は外」と豆をまきます。昔話でも、鬼は山の奥や島にいます。鬼はいつも「外」の存在として描かれます。

しかし仏教の見方では、鬼の住所は心の中です。

怒りに任せて、人を傷つける言葉を投げつけるとき(瞋恚)。人のものを奪ってでも手に入れたいと思うとき(貪欲)。人の不幸を、どこかで喜んでいるとき(愚痴)。——三毒の煩悩が勢いを増したとき、人は誰でも、鬼になります。

節分の鬼にいろいろな色(赤鬼・青鬼など)があるのは、人間のさまざまな煩悩を表しているという説もあります。だとすれば、豆をまくべき相手は、外ではなく、自分の心の中ということになります。

誰でも鬼になる——縁が揃えば

「自分は鬼になんてならない」と思うかもしれません。でも、思い出してみてください。

ハンドルを握った途端、前の車に苛立って人が変わる。匿名になった途端、SNSで見知らぬ誰かを叩く言葉が打てる。疲れて余裕のない日、店員さんに強い口調をぶつけてしまう。——どれも特別な悪人の話ではなく、ごく普通の人に起きていることです。

このブログの式で言えば、果y = 因a × 縁x。心の中に三毒という因がある限り、縁(匿名性・疲れ・立場の力)が揃えば、誰でも鬼という果が現れるのです。逆に言えば、鬼にならないためには、因(心)を整えるか、縁(鬼が出やすい状況)を避けるか。両方に手が打てます。

餓鬼という鬼——奪うほど、飢える

仏教には餓鬼——飢えた鬼、という言葉もあります。

何も持っていなくて飢えている無財餓鬼だけではありません。たくさん持っているのに、まだ飢えている有財餓鬼がいます。「自分さえ良ければいい」と奪い続ける人を我利我利亡者と言いますが、不思議なことに、奪えば奪うほど、心は満たされるどころか飢えていきます。

そして、他人を損なう行いは、必ず自分をも損ないます。自損損他——鬼になって得をする者は、実は一人もいないのです。

鬼退治の方法——仁に近づく

鬼が「仁から遠い」状態のことなら、鬼退治の方法は決まっています。仁に近づくことです。悪い心の働きを抑え、善い行いに直していく——廃悪修善です。

難しいことではありません。お金がなくてもできる布施、無財の七施があります。笑顔で接する(和顔悦色施)。優しい言葉をかける(言辞施)。席を譲る(床座施)。心を配る(心施)。

イライラした瞬間に、一呼吸おいて言葉を選び直す。それだけでも立派な忍辱の練習です。小さな思いやりを一つ行うたびに、心は鬼から一歩、遠ざかります。

まとめ——豆は、心の中にまく

「あの人は鬼のようだ」と誰かを指差すとき、少し気をつけたほうがいいかもしれません。指差しているその心に、怒りの鬼が住み始めているからです。

鬼は外ではなく、内。そして鬼は生まれつきの怪物ではなく、縁次第で誰の心にも現れ、行い次第で遠ざけられるものです。

今日、自分の心の中に豆を一粒まきましょう。思いやりという豆を。それが一番確かな鬼退治です。

コメント