「この世の全てを手に入れた男」ゴールド・ロジャーを仏教で読み解く

「この世の全てを手に入れた男」ゴールド・ロジャーを仏教で読み解く 仏教

すべてを手に入れた男の、最初の言葉

「富、名声、力、この世の全てを手に入れた男 ゴールド・ロジャー。」

「俺の財宝か、欲しけりゃくれてやる。探せ、この世の全てをそこに置いてきた。」

世界的な人気漫画『ワンピース』の、あの始まりの言葉です。物語の幕を開けるこの一節を、今回は仏教の視点で読み解いてみます。

富・名声・力を、仏教で分解する

ロジャーが手に入れたとされる三つを、仏教の煩悩に当てはめてみましょう。仏教では、人の根源的な欲望を五欲(財欲・色欲・名誉欲・食欲・睡眠欲)と説きます。

  • …… 財欲。もっと欲しいと求める心です。
  • 名声 …… 名誉欲。認められたい、称えられたいという心です。
  • …… ひとことに力といっても、腕力、権力、影響力とさまざまですが、根にあるのは「他をしのぎたい」という心。仏教でいう修羅界——競い合い、勝ち続けなければ気が済まない世界の欲望です。

つまりロジャーは、五欲と修羅界の頂点に立った人物といえます。六道でいえば、最も楽しみの多い天上界の、さらに頂に立ったように見えます。

「この世の全て」とは、何だったのか

では、「この世の全て」とは一体何を指すのでしょうか。

仏教は、大宇宙も時間軸も、すべては因果関係でつながっていると説きます。あらゆるものは、因と縁がそろって一時的に生じた状態にすぎない。その実態は空(くう)である、と。

果y = 因a × 縁x。このブログで何度も書いてきた式です。富も名声も力も、無数の縁が重なって、たまたま今そこに現れているだけ。縁が変われば、消えていきます。諸行無常です。

ロジャーの「この世の全て」も、例外ではありませんでした。どれほど巨大でも、それは砂の城のように、因縁の上に建った一時的なものだったのです。

手に入れても、なぜ虚しいのか

仏教から見れば、富・名声・力はすべて一時的な幸福です。他人と比べて得られる「相対の幸福」であり、いつか必ず終わります。

これらを手に入れるために、人はどれだけ多くの相手と競い合うのでしょう。しかし、どれほど積み上げても、死を前にすれば、すべて手放さなければなりません。

歴史上の人物も、同じことを言い残しています。

天下を統一した豊臣秀吉は、辞世にこう詠みました。「露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」。栄華のすべてが、夢のまた夢だった、と。

大帝国を築いたアレクサンドロス大王には、こんな逸話が残ります。「棺から両手を出して葬れ。世界を手にした王も、何一つ持って行けぬと、人々に見せるために」。

あらゆる富と知恵を得た旧約聖書のソロモン王も、その果てに「空の空、いっさいは空である」と書き残しました。宗教は違えど、たどり着いた言葉が重なるのは興味深いところです。(もちろん、聖書の「空」と仏教の「空」は本来別の概念ですが、響き合うものは感じます。)

ロジャーは、財宝を「置いてきた」

ここで、あの一節をもう一度読み返してみます。

「探せ、この世の全てをそこに置いてきた。」

置いてきた——そう、彼も持って行けなかったのです。どんな財宝も、死の向こうへは一つも運べない。人は死ねば、富も名声も力も、すべてこの世に置いていくしかありません。

では、何も残らないのでしょうか。仏教は業力不滅と説きます。持って行けるものは何もない代わりに、自分がした行い(業)だけは消えず、未来へ影響を残していく、と。

そう考えると、ロジャーが本当に遺したのは、金銀財宝そのものよりも、一つの時代を丸ごと動かした「行動」だったのかもしれません。彼の生き様が、次の時代の海へ、無数の人を送り出したのですから。

まとめ——本当に手に入れるべきもの

富・名声・力・この世の全て。それらは確かに、まばゆく輝いて見えます。しかし仏教から見れば、すべては因縁が生んだ一時的なもの、いつか露と消える相対の幸福です。

お釈迦様が説かれたのは、他人と比べず、縁が変わっても崩れない「絶対の幸福」でした。競い合って積み上げるものではなく、心のあり方によって得られるものです。

あなたにとっての「ひとつなぎの大秘宝」は、どこにあるでしょうか。案外それは、遠い海の果てではなく、今日の自分の行いの中にあるのかもしれません。

 

一つの個人的な意見です。

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