『バカと無知』を仏教で分析——ダニング=クルーガー効果は、2500年前に「慢」と呼ばれていた

『バカと無知』を仏教で分析——ダニング=クルーガー効果は、2500年前に「慢」と呼ばれていた 仏教

正直に言うと、扱うか迷いました

今回の「本×仏教」は、橘玲さんの『バカと無知』。人間の認知能力の限界と、それが社会に及ぼす影響を容赦なく描いたベストセラーです。

白状すると、このブログで扱うか迷いました。人を「バカ」と呼ぶ挑発的な本と、すべての人に慈悲を注げ(無分別)と書いてきたこのブログは、そのままでは相性が悪い。でも読み方を一つ変えれば、この本は他人を笑う本ではなく、人間全員に組み込まれた認知の欠陥についての本になります。仏教の土俵で、受け止め直してみます。

ダニング=クルーガー効果——「慢」の科学

本書の軸はダニング=クルーガー効果——能力の低い人ほど、自分を過大評価するという心理学の知見です。知識が浅いほど、知らないことの存在自体が見えないので、「自分はよく分かっている」と感じてしまう。

仏教はこの現象に、とっくに名前を付けています。慢——なかでも、得ていないものを得たと思い込む増上慢(ぞうじょうまん)です。そして法句経に、こういう趣旨の言葉があります。

「愚かでありながら、自らを愚かと知る者は、その点においてすでに賢者である。愚かでありながら、自らを賢者と思う者こそ、真の愚者と呼ばれる」

——ダニング=クルーガー効果の、ほぼ完全な先取りです。2500年前、測定機器も統計もなしに、内観だけでここまで見えていたことに、あらためて驚きます。

この本の一番怖い読み方——グラフの中に、自分がいる

さて、ここからがこの記事の本題です。この本を読んで「いるいる、ああいうバカ」と笑った瞬間——私たちは、まさにそのグラフの左側に立っています。

ダニング=クルーガー効果の本当の恐ろしさは、「自分には適用されない」と感じる点にあります。八識の記事で書いた末那識——無自覚の深さで「自分は大丈夫」とつぶやき続ける心の層——は、全員の標準装備です。仏教の無明は「能力の低い彼らの病」ではなく、私を含む全人類の初期設定。ここが、本書の「バカと無知」と仏教の「無明」の決定的な違いです。三人称の病理か、一人称の病理か。

その解毒剤を実演した人を、私たちはすでに知っています。愚禿と名乗った親鸞聖人です。当代最高の知性が、自らを「愚かな禿げ頭」と署名した——自分の愚かさを知る者は賢者である、の生きた見本です。

知能と智慧は、別物である

もう一つ、仏教から大事な区別を持ち込みます。本書が語る「知能」は、IQ・読解力・情報処理の速さです。仏教の智慧は違います——因果を明らめる力、そして自分の愚かさを知る力です。

この二つは、別の軸です。知能が高くても、失敗を全部他人のせいにする人(愚痴の秀才)はいます。逆に、信の座に着いた熊谷直実のように、学識はなくとも智慧の深い人もいる。知能は頭の性能、智慧は心の向き。本書の悲観は前者の格差についてのもので、後者の格差は——ありがたいことに——生まれつきでも学歴でもなく、聴聞と種まきで誰でも縮められます。

脳への電気刺激——仏教からの一言

本書の終盤は、DBS(脳深部刺激)などで知能を物理的に増強する未来を展望します。足の遅い人が車に乗るように、能力を道具で補う——排除の優生学と違い、本人の自由意志による底上げだ、という整理は誠実だと思います。

仏教から添えるなら、一言だけ。技術は縁の道具であり、善悪中立です。ただし——賢くなった餓鬼は、より効率的に奪います。処理速度を上げても、欲の向きは変わらない。知能のドーピングは可能になるかもしれませんが、智慧のドーピングは原理的に存在しません。智慧だけは、自分の愚かさに気づく痛みと、日々の種まきからしか育たないのです。むしろ知能増強の時代が来るなら、智慧の価値は暴騰します。

まとめ——「愚かと知る」から、すべてが始まる

『バカと無知』への仏教からの返答は、三行です。人をバカと呼ぶな(無分別)。無知は全員の病と知れ(無明)。そして、愚かと知る者は、すでに賢者である(法句経)。

今日、自分の無知を一つ発見できたら、それはグラフの右側への一歩です。私も今日、この本に教わりました——「分かったつもり」こそ、一番の無知だと。お互い、愚禿の系譜でいきましょう。

コメント