今回は、笑えない回です
一休さんの笑い話シリーズ第3回。ですが先に申し上げます。今回の一休さんは、笑えません。そして、シリーズで一番大事な回です。
めでたい正月の朝に、それを掲げた
ある年の正月。晴れ着の人々が行き交い、門松が並ぶ京の町を、一休は歩きました。杖の先に、髑髏(どくろ)を突き刺して。
「ご用心、ご用心」と唱えながら、家々の前でその髑髏を差し出したと伝えられます。正月早々、縁起でもない——人々は眉をひそめました。そのときの歌が、これです。
「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
門松とは、一年の始まりを祝う印。しかし見方を変えれば、また一年、死へ近づいたという道しるべ(一里塚)でもある。めでたくもあり、めでたくもなし——。
悪趣味か、説法か
ただの悪趣味でしょうか。私は、これは一休流の最上級の説法だったと思います。
人が「死」を思い出すのは、身近な人を失ったときか、自分が病を得たときです。つまり、手遅れの一歩手前まで、思い出さない。以前『あっという間に人は死ぬから』の記事で書いたとおり、死を直視しない人は「時間は無限にある」と錯覚し、大切なことを先延ばしにし続けます。旅人と虎のたとえの、蜜を舐めて鼠の音を忘れる旅人です。
一休はそれを知っていたから、一年で最も浮かれる日——蜜が最も甘い日を、わざわざ選んだのです。浮かれること自体は否定していないことに注意してください。「めでたくもあり」と、祝いの面もちゃんと認めている。ただ、もう半分の真実(めでたくもなし)から目をそらすな、と髑髏を突きつけた。
親友・蓮如も、同じ説法をしていた
ここで、シリーズ第1回の対戦相手を思い出してください。蓮如上人です。
蓮如上人の最も有名な御文(お手紙)に「白骨の章」があります。「朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」——朝には血色のよい顔をしていた人が、夕方には白骨になっているかもしれない身である、と。
気づいたでしょうか。髑髏と白骨。禅の風狂僧と浄土真宗の巨人が、まったく同じ教材で、まったく同じ説法をしているのです。宗派の作法がどれだけ違っても、無常という真実は一つ。あの二人が親友だった理由が、ここでも証明されています。
「ご用心」の中身——脅しではなく、処方箋
誤解してはいけないのは、一休も蓮如も、人を脅して暗くさせたいのではない、ということです。順番は逆です。
死を忘れている人は、どうでもいいことに時間を使い、どうでもいいことで腹を立て、大切な人を後回しにします。死を思い出した人だけが、今日を正しく惜しめる。「無常を観ずるは菩提心の一なり」——終わりを直視することは、絶望の始まりではなく、本当に大切なことへ向かう出発点です。髑髏の「ご用心」は脅しではなく、今日という日の使い方への処方箋なのです。
まとめ——めでたくもあり、めでたくもなし
誕生日、正月、記念日。祝いの日はすべて、一里塚です。祝っていい。浮かれていい。ただ、年に数回だけ、一休の髑髏を思い出してください。
「ご用心、ご用心」——今年のあなたの一里塚は、どこへ向かう道の上にありますか。

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