そもそも、なぜ「一休」なのか
シリーズ第5回は、とんち話をいったん離れて、そもそもの疑問に答えます。なぜこの人は「一休」と名乗ったのか。
答えは、青年期の彼が詠んだ一首にあります。師からこの歌を認められて、「一休」の道号を得たと伝えられます。
「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」
たった三十一文字。しかしこの歌には、仏教の世界観が丸ごと入っています。分解してみましょう。
有漏路——煩悩の漏れる世界
「漏(ろ)」とは、煩悩のことです。心から漏れ出す欲、怒り、愚痴——。有漏路とは、煩悩の漏れる世界、つまり私たちが今生きているこの世を指します。仏教ではこの世を穢土(えど)——煩悩に穢れた世界——とも呼びます。ずいぶんな言われようですが、ニュースを5分見れば、まあ、否定しにくい命名です。
一方の無漏路は、煩悩の漏れない世界。悟りの世界、浄土です。
人生=「帰る途中の、一休み」という視点
この歌の凄みは、真ん中の五文字にあります。「帰る、一休み」。
人生とは、穢土から浄土へ帰る旅の途中の、ひと休みである——。つまりこの世は、終(つい)の住処ではなく宿屋だという見方です。
宿屋だと思うと、何が変わるでしょうか。宿の部屋が多少狭くても、隣がうるさくても、「まあ、宿だから」と流せます。ここを終の住処だと思い込むから、間取りに絶望し、調度品(財産や地位)を積み上げることに命を懸け、失うことに怯える。旅人と虎のたとえで書いたとおり、私たちはもともと旅の途中の身です。宿に執着する旅人ほど、滑稽なものはありません。
「雨降らば降れ、風吹かば吹け」——投げやりではなく
下の句は、一見投げやりに聞こえます。でも、上の句とつなげると意味が一変します。
帰る場所は決まっている。ここは旅の一休みにすぎない。だったら、道中の雨風に、いちいち人生を左右させる必要はない——。これは自暴自棄ではなく、行き先が定まった人だけが持てる安心です。雨を止ませる力はなくても、雨に濡れながら歩き続けることはできる。天気(縁)は選べなくても、歩み(因)は選べる。いつもの式のとおりです。
そして面白いことに、この「行き先が決まっているから、道中に動じない」という心の形は、親友・蓮如上人の説いた他力の安心と、深いところで響き合っています。禅僧の歌なのに、です。
誤解のないように言うと、「ここは宿だ」という視点は、この世を雑に扱うことではありません。むしろ逆です。良い旅人は、宿を丁寧に使い、出会った人に礼を尽くし、立つ時は来た時より綺麗にして発ちます。執着しないことと、大切にしないことは、まったく別なのです。宿だと知っているからこそ、同宿の縁(家族も、友も、今日すれ違う人も)が一期一会の重みを持つ——執着が消えた場所に、初めて本当の丁寧さが生まれます。
まとめ——今日も、良い一休みを
名は体を表すと言いますが、一休ほど名前に人生観を込めた人はいません。とんちも、髑髏も、破天荒も、すべてこの一首の上に立っています。ここは旅の宿。だから執着せず、だから笑い、だから今日を惜しむ。
あなたの今日が、良い一休みでありますように。雨降らば降れ、風吹かば吹け。

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