かくれんぼで朝まで隠れた僧——良寛。笑える名僧列伝①

かくれんぼで朝まで隠れた僧——良寛。笑える名僧列伝① 仏教

新シリーズ:笑える名僧列伝

一休シリーズが好評だったので(またも勝手に判断)、日本仏教の「笑える名僧」を巡る新シリーズを始めます。第1回は江戸時代の禅僧、良寛さんです。

逸話その一:かくれんぼで、朝まで

良寛は、子どもと遊ぶのが大好きな僧でした。手毬をつき、鬼ごっこをし、村の子らと日が暮れるまで遊ぶ。ある日のかくれんぼで、良寛は田んぼの藁の中に隠れました。ところが子どもたちは彼を見つけられないまま、日が暮れて家に帰ってしまいます。

翌朝。農夫が藁をどけると、そこに良寛がいる。驚く農夫に、良寛はこう言ったと伝わります。

「しっ、静かに。子どもらに見つかってしまう」

——朝までかくれんぼを続けていたのです。笑い話です。でも、ちょっと立ち止まってしまいます。この人の中では、遊びが「時間潰し」ではなく、今この瞬間の全部だった。過去の後悔にも未来の心配にも心を送らず、藁の中の「今」に完全にいる。禅が生涯かけて目指す境地が、かくれんぼの中に、さらりとあるのです。

逸話その二:泥棒に、月

良寛の庵は、盗るものが何もないほど貧しい住まいでした。ある夜、それでも泥棒が入ります。何もないので、泥棒は良寛の寝ている布団を引き剥がしにかかる。良寛は寝たふりをして、布団を取りやすいように寝返りまで打ってやったと伝えられます。

泥棒が去った後、独り残された良寛が窓の月を見て詠んだとされるのが、あの有名な句です。

「盗人に 取り残されし 窓の月」

——泥棒さん、月を持っていき忘れたね。……この句のすごみは、強がりの気配が一切ないことです。布団(有形の財)への執着がゼロだから、失っても心の帳簿はマイナスにならない。そして月(誰にも盗めないもの)の美しさは、ちゃんと勘定に入っている。有無同然の出口側を生きた人の句です。

凧の逸話も欠かせません。子どもに「凧に字を書いて」とせがまれた良寛は、喜んで筆を執り、「天上大風(てんじょうおおかぜ)」と書きました。空の上は大風——凧がよく揚がりますように、という子どもへの祝福です。名僧の書といえば難しい禅語が相場のところ、子どもの凧には子どもの言葉を。この書は今も残り、書としても最高傑作と評されています。相手に合わせて言葉を選ぶ(対機説法)の、一番かわいい実例です。

逸話その三:災難の見舞い状

笑える話の後に、良寛の一番深い言葉を。晩年、大地震で子を亡くした友人への見舞い状に、良寛はこう書きました。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」

——災難に遭うときは遭うのがよい。死ぬときは死ぬのがよい。それが災難をのがれる唯一の方法です——。冷たく聞こえるでしょうか。逆です。これは、子を亡くした友の「なぜだ、どうすれば防げた」という自責の輪廻(グルグル)を、そっと断ち切る言葉です。変えられない果を受け入れきったとき、初めて人は次の一歩の因をまける。慰めの言葉が尽きる場所で、良寛は真実だけをそっと置いた。友人だからこそ、です。

まとめ——無一物の豊かさ

手毬と藁と月しか持たなかった僧が、200年後も人を笑わせ、泣かせている。財産はとうに消え、行い(業)だけが残って働き続けている——良寛さんの人生そのものが、このブログでずっと書いてきた教えの見本市です。

次回は九州から、ゆるすぎる禅画の巨匠・仙厓さんが登場します。お楽しみに。

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