八方ふさがりの夜に
前に進むのも怖い。後ろに戻ることもできない。立ち止まっていることさえ、つらい。——人生には、そんな八方ふさがりの時期があります。
そういうときに思い出してほしい、一枚の絵のような話があります。約1300年前、中国の善導大師が説いた二河白道(にがびゃくどう)のたとえです。
火の河、水の河、そして白い道
ひとりの旅人が、西に向かって歩いています。
すると突然、目の前に二つの河が現れました。南側は、炎が渦巻く火の河。北側は、深く冷たい水の河。どちらも幅は果てしなく、深さは底なしです。
そして二つの河のあいだに、一筋だけ、幅わずか十数センチの白い道が、西の岸まで伸びていました。ただし道の上にも、火の粉と波が絶えず襲いかかっています。
振り返れば、盗賊や獣の群れが迫ってくる。戻れば命はない。留まっても命はない。進めば、落ちてしまいそうな細い道。
絶体絶命の、そのときです。
東の岸から声がしました。「その道を行きなさい。死ぬことはない。」
そして西の岸からも、呼ぶ声がしました。「まっすぐに来なさい。私があなたを守る。」
旅人は意を決して白い道を歩み、ついに西の岸にたどり着きました。そこには、何の恐れもありませんでした——。
河の正体は、外ではなく内にある
善導大師は、それぞれの意味をこう説いています。
- 水の河:貪欲——「欲しい、失いたくない」と執着する心
- 火の河:瞋恚——怒りや恨みの心
- 群賊や獣:「戻っておいで」とささやいて、歩みを引き留めるもの
- 白い道:欲と怒りの真っただ中にあっても、確かに存在する、救いへの道
- 東の岸の声:お釈迦様の「行け」という勧め
- 西の岸の声:阿弥陀仏の「来い」という呼び声
行く手を塞いでいた河は、実は外の障害物ではなく、自分の心の中の煩悩でした。そして注目してほしいのは、このたとえの主役が「道の細さ」ではないことです。
要点は、道が「在る」ということです。
渡り切る力が、自分になくてもいい
「そんな細い道、自分には渡り切れない」と思うかもしれません。
でも、この話には仕掛けがあります。旅人は、自分の力量を信じて渡ったのではありません。「来なさい、守る」という声を信じて、一歩を出したのです。浄土真宗ではこれを他力と言います。自分の力で人生を渡り切れる人など、実はどこにもいません。渡らせる働きの側に、力があるのです。
群賊の「戻っておいで」というささやき——それは、あなたを過去の場所へ引き戻そうとする声です。その声がどれだけ大きくても、白い道は消えません。
「一歩」というのは、大きなことでなくていいのです。今夜をひとまず越すこと。温かいものを一杯飲むこと。信頼できる誰かに、一言だけ話してみること。——それも立派に、白道の上の半歩です。東の岸の声は「走れ」とは言っていません。「行きなさい」と言っただけです。速さは、問われていません。
道は、消えていない
今、河の轟音しか聞こえない場所にいる方へ。
炎と波の音が大きい日は、足元の白い一筋が見えなくなります。でも、見えないことと、無いことは違います。1300年間、この絵が描き続けられてきたのは、「どんな絶体絶命の構図の中にも、白い道は必ず描かれている」と伝えるためでした。
今日は一歩でなくていい。半歩でも、道の上にいれば、それで前に進んでいます。あなたを呼ぶ声は、今も西の岸から聞こえています。
一人で抱えるには重すぎる夜は、話を聴いてくれる人がいます。電話やSNSで話せる窓口が、厚生労働省の「まもろうよ こころ」にまとまっています。この記事を閉じたあとの あなたの時間が、少しでも軽くなりますように。


コメント