知の巨人・立花隆の死生観に、仏教から返信する——死を思うことと、死を選ぶことのあいだ

知の巨人・立花隆の死生観に、仏教から返信する——死を思うことと、死を選ぶことのあいだ 仏教

はじめに——今回は、慎重に書きます

今回の「×仏教」は、いつもより慎重に、敬意を持って書きます。相手は「知の巨人」と呼ばれた立花隆さん(2021年没)。田中角栄研究から宇宙、脳死、臨死体験まで、人類の知の最前線を歩き続けた人です。そして扱うのは、彼が残した死生観——重いテーマです。しんどい時期の方は、今日は閉じて、元気な日に読んでください。記事の最後には、話を聴いてくれる窓口も置いておきます。

立花隆の三つの主張

解説動画などで紹介される立花さんの死生観は、要約すると三つです。

①死について真剣に悩むことは、健全な精神的成長の一段階である。青年期に一度も「死にたい」と考えたことがない人がいれば、むしろ成長過程に欠落があるのではないか、とまで言います。

②悩み抜いた末の選択なら、生を選ぶことと死を選ぶことは対等であり、後者も悪とは言えない。

③分子生物学的に見れば、生命はDNA複製の偶然のエラーの産物であり、人間存在に特別な意味はない。

ごまかしのない、正面からの問いです。だからこちらも、ごまかさずに返信します。

①には、仏教は全面的に同意する

まず①。これは仏教の立場と、ほぼ完全に一致します。

お釈迦様の出発点は四門出遊——死の直視でした。「無常を観ずるは菩提心の一なり」、死を思うことは道の始まりです。『あっという間に人は死ぬから』の記事でも書いたとおり、死を直視した人だけが、今日を本気で生きられる。

だから、かつて深く沈んで「消えたい」と考えたことのあるあなたへ——立花さんと仏教の、両方が保証しています。それは欠陥ではなく、深く考えた証です。あなたの感覚は壊れていない。むしろ人生の実相に、人より近くまで行った人なのです。

②に、仏教は静かに異を唱える

しかし②には、敬意を持ったまま、はっきり別の答えを返します。

立花さんは「実行に移さないなら、本当に悩み抜いたと言えるのか」と問いました。鋭い問いですが、私はこの論理に二つの穴があると思います。

第一に——悩み抜いた末に「生きる」を選ぶ人の真剣さは、何によっても証明を要求されないはずです。実行だけが真剣さの証明なら、生還者は全員「悩みが足りなかった人」になってしまう。そんなはずはありません。どん底まで沈み、それでも生きるを選んだ人の真剣さを、私は知っています。

第二に——「悩み抜いた末の結論」と呼ばれるものの多くは、正確には「疲れ果てた日の結論」です。屏風の虎の記事で書いたとおり、追い詰められた心は視野が狭くなり、選択肢が見えなくなります。そして諸行無常——「この苦しみのまま永遠に続く」という判断の前提そのものが、変わり続けるのです。一休さんの遺言を思い出してください。「心配するな、大丈夫、なんとかなる」——あの言葉が効くのは、最悪の日の判断は、最悪の日の視界で下されているからです。判断は、視界が戻ってからでいい。仏教は選んだ人を裁きません(無分別の慈悲)。しかし、選ばないでほしいと、はっきり言います。人身受け難し——この命は、あまりに得難いものだから。

③同じ事実から、逆の結論が出る

そして③が、一番面白いところです。「生命は偶然のエラーの積み重ね。ゆえに特別な意味はない」——実は仏教は、事実認識のレベルでは、これに反対しません。固定した意味を持つ「私」など無い(無我)。すべては縁の偶然の重なり(縁起)。ここまで、分子生物学と仏教は同じ景色を見ています。

分かれるのは、解釈です。盲亀浮木の記事で試算したとおり、この命は途方もない偶然の産物です。立花さんはそこから「ゆえに無意味」と読んだ。仏教は同じ数字から「ゆえに有り難し」と読んだ——。同じ水が見る者によって違って見える、一見四水です。めったに起きないことを「無意味な偶然」と呼ぶか、「奇跡」と呼ぶか。データは同じ。どちらの解釈で生きるかだけが、私たちに残された自由なのです。そして、どうせ選べるなら——奇跡の側の解釈で生きるほうが、同じ人生が、まるで違う味になります。

実は仏教にも「生きてもいい、死んでもいい」がある

最後に、一番深いところへ。実は浄土真宗にも、立花さんの「生と死は対等」とそっくりに見える言葉があります。三大諍論の記事で書いた、摂取不捨の大安心——「生きても良し、死んでも良し」です。

似ている。でも、中身は正反対です。立花さんの対等は「どちらを選んでもいい」という選択の話。仏教の「生きても良し死んでも良し」は、阿弥陀仏の本願に救い取られた人に訪れる「どちらが来ても大丈夫」という安心の話——死を選ぶための言葉ではなく、死を恐れなくてよくなる言葉なのです。

そして、この安心は生きているうちに受け取るもの(平生業成)でした。だから教えの順番は、こうなります。その心になるまでは、生き延びなさい。生き延びて、この安心に出遇えたなら——そこから先は、すべてに感謝して生きる人生が始まる。つまり、人生には目的があるのです。「生きる意味なんて無い」ではなく、「受け取るべきものが、まだ残っている」。ゴールが前方にある人は、途中下車する理由がありません。

まとめ——死を思え。死を選ぶな

立花さんの問いの誠実さに、心から敬意を表します。その上で、仏教からの返信はこの一行です。

死を思え。しかし、死を選ぶな。

四門出遊の王子は、死を見て、死に向かわず、道を探しに出ました。死の直視は出発点であって、終着点ではない——2500年前から、この順番だけは変わっていません。


一人で抱えるには重すぎる夜は、話を聴いてくれる人がいます。電話やSNSで話せる窓口が、厚生労働省の「まもろうよ こころ」にまとまっています。この記事を閉じたあとの あなたの時間が、少しでも軽くなりますように。

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