第3回 欲望は悪なのか
「欲望を捨てなさい」
仏教に対して、多くの人がそんなイメージを持っている。しかし、私はそれを文字通りに受け取ることに、ずっと違和感があった。
欲望そのものが悪なのではない。なぜなら、人間そのものが欲望だからだ。
生きたい。知りたい。愛したい。成長したい。認められたい。これらはすべて欲望だ。もし欲望が完全になくなれば、人は食べることも、誰かを愛することも、朝に目を覚ます理由も失う。生命そのものが、欲望によって動いている。
問題は欲望の有無ではなく、欲望の向きだ。
自分だけが良ければいい、他人から奪ってでも満たしたい、という方向の欲望は苦しみを生む。しかし、自分も豊かになり、周りも豊かになる、という方向の欲望は創造を生む。
仏教の「布施」も、儒教の「仁」も、近江商人の「三方良し」も、根底にあるのは同じことだと思う。欲望を消すのではなく、欲望の向きを変える。それが智慧の本質なのかもしれない。
ナヴァルが言う「富を生む特殊知識」も、同じ文脈で理解できる。社会に価値を提供することで、自分も豊かになる。搾取ではなく、創造によって富を得る。欲望を否定するのではなく、欲望を世界への貢献へと向けるのだ。
では、なぜ人は欲望を間違った方向へ向けてしまうのか。
一つの答えは、恐れだと思う。
失いたくない。足りなくなるのが怖い。認められなかったらどうしよう。そうした恐れが、欲望を歪める。他人を押しのけてでも奪おうとする行動は、多くの場合、欠乏感と恐れから来ている。
そして、その恐れの根本には、「私は孤独な存在だ」という感覚がある。
世界は競争の場であり、自分一人で戦わなければならない。そう感じているとき、人は欲望を防衛の道具として使う。
しかし、もし世界が縁によってつながっていると感じられたなら、欲望の色は変わる。足りないのではなく、すでにつながっている。奪わなくても、創ることで豊かになれる。
欲望は消えない。消す必要もない。ただ、向きを変えることができる。
そしてその方向転換は、深く考えることから始まる。なぜ自分はこれを欲しいのか。本当に欲しいのはこれなのか。その欲望は、誰かを傷つけるか。それとも、誰かの喜びにつながるか。
問い続けることが、欲望を知恵に変える。
哲学の実践とは、もしかするとそういうことなのかもしれない。
欲を消す教えではなく、欲の向きを変える教え
仏教は欲を捨てる教えだと思われている。だが、経典を読むほど、そうではないと感じる。
たとえば、仏の願いそのものが「すべての人を救いたい」という強烈な欲求の形をしている。もし欲そのものが悪なら、その願いまで悪ということになってしまう。そうではないのだろう。同じ力が、自分に向けば煩悩と呼ばれ、他者に向けば願と呼ばれる。名前が違うだけで、燃料は同じなのだ。
だとすれば、欲の強い人ほど見込みがある、とも言える。燃料の少ない車は、向きを変えても遠くまで行けない。強い欲を持て余している人は、実は大きなエンジンを積んでいるだけなのかもしれない。
問うべきは、馬力ではなく行き先だ。この欲は、誰かから奪う方向を向いているか。それとも、誰かと共に豊かになる方向を向いているか。その問い一つで、同じ欲望が、まるで違うものに変わっていく。


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