第4回 私とは何か
「私は誰か」
この問いは、古代から人類が問い続けてきた。哲学の出発点であり、おそらく終点でもある問いだ。
デカルトは言った。「我思う、ゆえに我あり」と。考えている自分がいる、それだけは疑えない。しかし、考えている「私」とは何者なのか。それ自体は答えていない。
身体だろうか。しかし身体の細胞は数年で入れ替わる。10年前の私と今の私は、ほぼ別の物質でできている。
記憶だろうか。しかし記憶は書き換えられる。昨日の出来事でさえ、時間が経てば少しずつ変容していく。脳の損傷で記憶を失った人は、「私」でなくなるのか。
心だろうか。しかし心は毎日揺れ動く。嬉しいとき、悲しいとき、怒っているとき。「私」は同じなのに、心の状態はまるで別人のように変化する。
仏教はこの問いに対して、ある意味で根本的な答えを出している。
固定された自我は存在しない。無我である。
人間とは、身体、感覚、知覚、意志、意識という五つの要素が一時的に集まったものだ。それらが縁によって結びつき、「私」という現象が生じている。川の流れのようなものだ。川には名前があり、形がある。しかし、そこを流れる水は一瞬も同じではない。
最初にこれを聞いたとき、私は少し怖くなった。私という存在が、実体のない現象に過ぎないとしたら、何のために生きるのか。何を積み上げればいいのか。
しかしよく考えると、むしろ逆だと思うようになった。
固定された「私」がないからこそ、人は変われる。過去の失敗に縛られなくていい。昨日の自分と今日の自分は、本当の意味では別の存在だ。仏教の無我は、絶望ではなく、解放の哲学なのかもしれない。
そしてもう一つ、深い示唆がある。
もし「私」が縁によって生じる現象であるなら、「私」と「世界」の境界は、思ったよりずっと曖昧だ。
私が今ここにいるのは、両親がいたからだ。その両親も、また無数の縁によって生まれた。私が話す言葉は、誰かが作り、誰かが伝え、誰かから学んだ。私が持つ価値観は、出会った本、人、体験から形成された。
どこまでが「私」で、どこからが「世界」なのか。
その境界を引くこと自体が、もしかすると思い込みなのかもしれない。
ユング心理学では、個人の無意識の底に「集合的無意識」があると言う。人類が長い歴史の中で積み重ねてきた、共通の心の層だ。夢の中で見るアーキタイプ、神話の共通パターン、普遍的な感情。これらは、私が生まれる前から存在し、私が死んだ後も続いていく。
私とは、宇宙が自分自身を観察するために生み出した、一時的な視点なのかもしれない。
そう考えると、「私」という存在の儚さは、悲しみではなく、不思議な美しさを帯びてくる。


コメント