本記事は太宰治「人間失格」の内容を含みます。自己否定や依存症など重いテーマを扱いますので、体調に合わせてお読みください。
はじめに
太宰治の「人間失格」は、1948年に発表された日本文学の代表作です。
主人公・大庭葉蔵の手記という形式で書かれており、「恥の多い生涯を送って来ました」という書き出しで始まります。太宰自身の自伝的要素が色濃く、発表直後に太宰は入水自殺しました。
戦後80年近くが経った今も読み継がれるのは、葉蔵の苦しみが「特殊な人間の話」ではなく、誰もが持ちうる心の動きを鋭く描いているからではないでしょうか。
この記事では「人間失格」を仏教の六道・因果の道理で読み解き、葉蔵の転落がなぜ起きたのかを考えてみます。
あらすじ——葉蔵という人間
物語は三つの手記と、語り手による前書き・後記で構成されています。
第一の手記(幼少期〜青年期)
葉蔵は裕福な家庭に生まれますが、幼い頃から「人間が怖い」という感覚を持っています。人の本音がわからない。どう振る舞えばいいかわからない。そこで編み出したのが**道化(おどけ)**です。笑わせることで、場の緊張を和らげ、自分の本音を隠す。これが葉蔵の唯一の処世術でした。
第二の手記(東京時代)
上京した葉蔵は画家志望の堀木と出会い、酒・タバコ・女性の世界へ引き込まれます。心中事件を起こし、相手の女性だけが死亡。葉蔵は生き残りますが、ここから転落が加速します。
第三の手記(破滅へ)
純粋な女性・ヨシ子と結婚しますが、彼女が他の男に犯されるのを止められなかった自分を責め続けます。モルヒネ中毒になり、廃人同様の状態で精神病院に送られます。最後の言葉はこうです。
「自分には、幸福も不幸もない。ただ、一切は過ぎて行く」
葉蔵を六道で読む
葉蔵の人生を六道に当てはめると、転落の構造がくっきりと見えてきます。
出発点——修羅界と畜生界の境界
葉蔵は幼少期から「人間を信頼できない」という感覚の中にいます。人の笑顔が仮面に見える。怒りも本当かどうかわからない。これは因果関係が見えない畜生界的な認識と、絶えず他者の目を気にして戦い続ける修羅界的な緊張が混在した状態です。
道化という縁(x)
葉蔵が選んだ「道化」は、短期的には機能しました。笑わせることで人間関係を乗り切れる。しかしこれは本音を隠す縁(x)であり、本質的な因(a)——自分と向き合うこと——から逃げ続ける選択でした。
y = ax において、因(a)を変えないまま縁(x)だけで乗り切ろうとした結果、果(y)は変わらない。むしろ悪化していきます。
酒・女性・薬——天上界から三悪道へ
東京時代に入ると、葉蔵は酒と女性に溺れていきます。これはまさに天上界の入口です。一時的な快楽で苦しみを紛らわせる。しかし天上界は「地獄の始まり」と仏教が警告する通り、葉蔵の依存は深まり続けます。
アルコール→心中→モルヒネという流れは、惑業苦のサイクルそのものです。
苦しみ(苦)→快楽で紛らわす(惑)→依存という悪業(業)→さらなる苦しみ(苦)→……
最終的な転落——地獄界
精神病院に送られた葉蔵は、「廃人」という言葉で自分を定義します。自業苦——自分の行いが苦しみとなって返ってきた状態です。ただここで重要なのは、葉蔵自身は「自分が悪い」とわかっているという点です。わかっていても止められない。これが惑業苦のサイクルの恐ろしさです。
葉蔵の根本にあったもの——愚痴と疑
仏教の六大煩悩で葉蔵を分析すると、特に二つが際立ちます。
愚痴(ぐち)——因果関係がわからない
葉蔵は「人間が怖い」という感覚の原因を最後まで自分の中に見出せませんでした。人間関係がうまくいかない原因を、自分の行い(因)ではなく「自分という存在そのもの」に帰してしまっています。これは原因自分論ではなく、存在自分論とでも呼ぶべき歪みです。「自分が悪い行いをした」ではなく「自分という存在が失格だ」という認識のズレが、解決の糸口を永遠に見えなくさせていました。
疑(ぎ)——真理を疑う心
葉蔵は他者の善意を信じられません。ヨシ子の純粋さを愛しながらも、「この純粋さはいつか傷つく」と確信していました。信じたいのに信じられない——この疑の煩悩が、布施(与える・信じる)を不可能にしていたといえます。
なぜ葉蔵は救われなかったのか
仏教的に見ると、葉蔵には二つの道がありました。
自力(難行)の道——自分の煩悩に気づき、因(行動)を変えていく道。葉蔵は頭脳明晰で自己分析能力も高い。気づきはあります。しかし「気づいていても変えられない」というのが煩悩の本質であり、自力の限界です。
他力(易行)の道——阿弥陀仏の本願に任せ、煩悩があるがまま救われる道。葉蔵には「信じる」という行為そのものができませんでした。疑の煩悩がこれを阻んでいます。
葉蔵の悲劇は、自力では変われず、他力を受け取る入口(信じること)も閉ざされていたという二重の詰まりにありました。
「人間失格」というタイトルの意味
仏教では人間を「煩悩具足の凡夫」と定義します。欲望の塊であることが、人間の定義です。
葉蔵は自分を「人間失格」と呼びましたが、仏教から見れば逆です。
煩悩に苦しみ、もがき続けた葉蔵は、むしろ人間そのものです。
失格なのではなく、煩悩具足の凡夫として人間界を生き切った——そう読むこともできます。
ただし、その苦しみから抜け出す方法を知らなかった。あるいは、知っていても受け取れなかった。そこが葉蔵の、そして太宰の、悲劇だったのかもしれません。
まとめ
| 作品の出来事 | 仏教の言葉 |
|---|---|
| 道化で本音を隠す | 因(a)を変えず縁(x)だけで乗り切る |
| 酒・女性・薬への依存 | 天上界→三悪道への転落 |
| 止められない悪循環 | 惑業苦のサイクル |
| 人間が信じられない | 疑の煩悩 |
| 原因を「自分の存在」に帰す | 愚痴・畜生界的認識 |
| 自力でも他力でも救われない | 難行の限界・疑による他力の遮断 |
葉蔵の転落は、特別な人間の特別な話ではありません。因(行動)を変えずに縁(環境・快楽)だけで乗り切ろうとすれば、誰でも同じサイクルに入りうる。
仏教はその構造を「惑業苦」という言葉で2500年前から説いています。
「人間失格」を読んだことがある方は、ぜひ六道の地図を手に持ってもう一度読んでみてください。葉蔵がどの道を転がり落ちていったか、驚くほど鮮明に見えてきます。


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