欲望は、消すものではなく「乗り物」である——欲すら道具にする仏教

欲望は、消すものではなく「乗り物」である——欲すら道具にする仏教 仏教

仏教への、最大の誤解

「仏教=欲を捨てる教え」。世間のイメージはこれです。そして多くの人が、ここでつまずきます。「欲を捨てたら、働く気力も、生きる張り合いもなくなるじゃないか」——。

ご安心ください。哲学対話の第3回で書いたとおり、人間そのものが欲望でできています。食べたい、生きたい、知りたい、愛されたい——欲が完全に消えたら、朝起きる理由すら消えます。仏教が問題にしているのは欲の有無ではなく、向きでした。

今回はそこから一歩進めます。欲望とは、消す対象ですらなく、「道具」であり「乗り物」なのではないか——という話です。

欲望をベクトルで書く

このブログでは以前、努力と責任をベクトル(大きさと方向を持った力)として描きました。欲望も、まったく同じ形をしています。

欲望の大きさ=推進力。欲望の向き=行き先。

「お金が欲しい」「認められたい」「もっと上手くなりたい」——この燃料の量そのものに、善悪はありません。同じ強さの「認められたい」が、向きによって、人を蹴落とす修羅にも、人を助ける名医にもなる。つまり欲望はエンジンであって、ハンドルではないのです。エンジンの馬力を責めても仕方がない。問うべきは、ハンドル(心の向き)だけです。

大きな欲は、大きな乗り物になる

この見方に立つと、面白い逆転が起きます。欲深い人ほど、実は見込みがあるのです。

燃料の少ない車は、向きを変えても遠くへ行けません。強欲と呼ばれるほどの推進力は、向きさえ変われば、その馬力のまま利他の距離を走ります。渋沢栄一の500社も、本多静六の巨富と寄付も、根っこにあったのは「小さくまとまらない欲」でした。欲を「もっと稼ぎたい」から「もっと世に役立ちたい」へ——エンジンはそのまま、ハンドルだけを切った人たちです。

思い出してください。愛憎一如の記事で、渇愛(思い通りにしたい愛)と慈悲(条件のない愛)は別物だと書きました。でも両者は、エネルギーとしては地続きです。渇愛を殺して慈悲を作るのではなく、渇愛という燃料が、向きを変えて慈悲になる——欲の変換であって、欲の削除ではないのです。

究極の証拠——仏の「願い」

決定的な証拠を挙げましょう。浄土真宗の中心にある阿弥陀仏の本願——「すべての衆生を救いたい」という願いです。

よく考えてください。「救いたい」も、形の上ではです。もし欲そのものが悪なら、仏の願いまで悪になってしまう。そうではなく——欲望という力が、私に向けば煩悩と呼ばれ、あなたに向けば願いと呼ばれる。煩悩と願いは、同じ力の、向きの名前なのです。欲を消せと言う教えではなく、欲の最も清らかな完成形(願)を見せて、「その向きへ」と指し示す教え——仏教とは、そういうものだと私は受け取っています。

実践——エンジンを止めず、ハンドルを切る

具体的には、欲が湧いたら、消そうとせず二つだけ問うてください。①この欲は、どこへ向かっているか(自分だけか、周りも潤うか)。②この馬力を、利他の向きで使うとしたら何ができるか

「認められたい」なら、認められる実力で人を助ければいい。「稼ぎたい」なら、稼げる仕組みで雇用を作ればいい。エンジン停止ではなく、進路変更。こちらの方が、禁欲よりずっと現実的で、ずっと遠くまで行けます。

まとめ——馬力を、誇っていい

欲の強さに悩んでいる人は、罪悪感を手放してください。それは積んでいる燃料が多いというだけのことで、乗り物としては上等なのです。

問題は馬力ではなく、行き先。今日もそのエンジンで、良い方角へ、良い種をまきに行きましょう。

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