親の恩は、なぜ「数え切れない」のか——仏教が数えてみせた「十の恩」

親の恩は、なぜ「数え切れない」のか——仏教が数えてみせた「十の恩」 仏教

布施をすべき「三つの田」の一つ

以前、布施の記事で「布施は相手(田)を選んでいい」という三田の話を書きました。敬田(尊敬すべき相手)、悲田(困っている相手)、そしてもう一つが恩田(おんでん)——恩を受けた相手です。その恩田の代表として、仏教が真っ先に挙げるのがです。

「親の恩は数え切れない」——誰もが聞いたことのある言葉です。でも面白いことに、仏教はそれを「数え切れない」で済ませず、実際に数えてみせたお経があります。『父母恩重経』が説く、十種の恩です。

十の恩——生まれる前から、死ぬまで

全部は挙げませんが、いくつか紹介します。読みながら、心当たりを探してみてください。

懐胎守護の恩——十月十日、腹の中で守り続けてくれた恩。恩は、誕生日より前から始まっています。廻乾就湿(かいかんじゅうしつ)の恩——子を乾いた場所に寝かせ、自分は(子が濡らした)湿った場所に寝る恩。嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩——苦いものは自分が飲み、甘いものは子に与える恩。遠行憶念の恩——子が遠くへ行っても、思い続ける恩。あなたが一人暮らしを始めた日も、旅行に出た日も、親の心の中では「今ごろ着いたかな」が動いていた、あれです。そして究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩——命の終わる瞬間まで、子を憐れみ続ける恩。

お経がここまで具体的に数え上げた理由は、一つしかありません。数えなければ、見えないからです。

恩は、空気に似ている

親の恩が見えにくいのには、構造的な理由があります。あまりに早くから、あまりに当たり前にあったからです。空気と同じで、はじめから包まれているものは、知覚できない。

だから人が親の恩に気づくタイミングは、たいてい二つしかありません。自分が親になったとき(夜泣きの夜に「これを自分もやってもらったのか」と気づく)と、親を失ったとき(空気が消えて、初めて空気があったと知る)。後者で気づくのは、あまりに切ない。だからお経は先回りして、リストにしてくれているのです。

知恩、感恩、報恩——三段階

松下幸之助さんの記事でも書いた三つの言葉が、ここで効いてきます。知恩(恩を知る)、感恩(恩を感じる)、報恩(恩に報いる)。順番が大事です。知らない恩は感じられず、感じない恩には報いられません。十種の恩のリストは、第一段階「知恩」の教科書なのです。

そして報恩は、豪華な親孝行である必要はありません。電話一本、顔を見せること、「ありがとう」を言葉にすること——無財の七施で十分始まります。親が既にいない人は、受けた恩を次へ渡す(自分の子へ、周りの人へ)ことが報恩になります。恩は返すものであると同時に、流すものでもあるからです。

まとめ——数えてみる、という親孝行

複雑な事情があって、親との関係がきれいごとでは済まない方もいるでしょう(親も煩悩具足の凡夫です)。それでも、命がここまで運ばれてきたという一点には、誰かの膨大な世話が挟まっています。

今日の提案は一つだけ。「数え切れない」で畳まずに、一つだけ、具体的に数えてみること。数えた瞬間、それは空気から、恩に変わります。

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