死の間際に、弟子へ残した一通の封書
一休さんの笑い話シリーズ、最終回です。最後にふさわしい、一番好きな伝承を置きます。
1481年、一休は88年の生涯を閉じようとしていました。臨終の床で、弟子たちに一通の封書を手渡して言います。
「この先、どうにもならないほど困り果てたときが来たら、これを開けなさい。それまでは決して開けてはならぬ」
師の遺言です。弟子たちはその封書を大切に保管しました。
数年後、寺に大難題が起きた
それから数年。寺は、どうにもならない難題に直面します。弟子たちは知恵を出し尽くし、万策尽きて、ついにあの封書のことを思い出しました。師が遺してくれた、最後の教え。今こそ開けるときだ——。
固唾をのんで開いた紙には、こう書かれていました。
「心配するな、大丈夫、なんとかなる」
……それだけ。対処法も、秘策も、何もなし。弟子たちは呆気にとられ、やがて笑い出したと伝えられます。そして不思議なことに、肩の力が抜けた弟子たちは、その難題を乗り越えてしまったのです。
ふざけた遺言か、最高の遺言か
これを「無責任な遺言」と読むこともできます。でも、シリーズを通して一休を見てきた私たちには、もう分かるはずです。これは計算し尽くされた、最後のとんちです。
考えてみてください。「どうにもならないほど困り果てたとき」の心は、どうなっているか。視野が狭くなり、最悪の想像(屏風の虎)が暴れ回り、体はこわばっている。問題そのものより、問題を握りしめた心が、人を動けなくしているのです。
そこに「なんとかなる」の一言と、笑い。このシリーズでずっと書いてきたとおり、笑いは執着を破る刃です。一休は、未来の弟子たちの「握りしめた心」に向けて、時限式の刃を仕込んでおいた。問題を解く知恵より先に、問題を握りしめた手をほどく——順番が完璧なのです。
「なんとかなる」の仏教的な根拠
しかも「なんとかなる」は、気休めではありません。ちゃんと裏付けがあります。
第一に諸行無常。すべては変わり続ける——ということは、最悪の状況も、必ず変わるということです。無常は普段、大切なものを奪う顔で語られますが、苦しみの底では救いの顔になります。第二に、自分の計らいを握りしめた手を放す——これは親友・蓮如上人の説いた他力の心と、深く響き合います。自分の力だけで何とかしようと力むほど、人は動けなくなる。ゆだねた瞬間、動けるようになる。
ちなみに一休自身は、臨終に「死にとうない」と漏らしたという伝承もあります。悟りの人でも、死は怖い。それを隠さない正直さまで含めて、私はこの人が好きです。強がりの「なんとかなる」ではなく、弱さを知り抜いた人の「なんとかなる」だから、効くのです。
そしてこの伝承には、もう一つの層があります。封書が開かれたとき、一休はすでにこの世にいません。それでも、生前の行い(仕込んでおいた一手)が、数年の時を超えて弟子たちを救った——業力不滅です。人は死んでも、まいた種は生きて働き続ける。「なんとかなる」の紙切れ一枚は、行いだけが時を超えるという、このブログでずっと書いてきた教えの、美しい実物でもあるのです。
シリーズを終えて——とんちとは何だったのか
蓮如との対決、立て札、水飴、髑髏、屏風の虎、名前の歌、そして遺言。全6回を貫いていたものは、一つでした。とんちとは、執着を笑いで破る技術である。言葉への執着、建前への執着、めでたさへの執着、不安への執着、そして「自分でなんとかしなければ」への執着——一休は生涯、人々の握りしめた手を、笑わせてほどき続けた人でした。
あなたの机の引き出しにも、あの封書を一通、入れておいてください。中身はもう知っていますね。心配するな、大丈夫、なんとかなる。

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