気持ちは17歳のまま、体だけが老いていく——小野小町と「老苦」の話

気持ちは17歳のまま、体だけが老いていく——小野小町と「老苦」の話 仏教

老いの苦しみの、本当の正体

年配の方と話していると、よく聞く言葉があります。「気持ちは17歳のままなんだよ」——体は老いても、心の中の自分は若いまま。鏡を見て、写真を見て、階段で息が切れて、そのたびに「あれ?」と驚く。

実は、ここに老苦(ろうく)——四苦(生・老・病・死)の二番目——の正体があります。老いの苦しみとは、老いそのものではなく、「若いままの自己イメージ」と「老いていく現実」のギャップなのです。ギャップとはつまり、思い通りにならないこと。娑婆の仕様が、ここでも顔を出します。

世界三大美女は、老いをどう生きたか

この苦しみを、千年以上前に書き残した人がいます。世界三大美女に数えられる歌人・小野小町です。

「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」

——花の色は、むなしく褪せてしまった。物思いにふけって、長雨を眺めているうちに。わが身もまた——。

絶世の美貌を謳われた人が、その美貌の衰えを、ごまかさず歌に刻んだ。美しかった人ほど、老いは残酷です。持っていたものが大きいほど、失う痛みも大きい——有無同然の「有る苦しみ」が、美貌という財産で起きたのです。後世には、老いた小町が落魄して諸国をさまよったという伝説まで生まれました。伝説の真偽はともかく、人々がその物語を語り継いだのは、「美貌も無常である」という真実に、誰もがどこかで頷いたからでしょう。

執着の量が、苦しみの量

ここで気づくことがあります。老いは万人に平等に来るのに、老いの苦しみ方は人によってまるで違う。なぜか。

苦しみの量を決めているのは、老いの速度ではなく、「若さ」への執着の量だからです。美貌に執着した人は容色の衰えに苦しみ、体力を誇った人は衰えた足腰に苦しみ、地位を誇った人は退いた後の「ただの人」に苦しむ。それぞれ、握りしめていたものの形に、苦しみがへこむのです。まさに一見四水——同じ「老い」という水が、見る人の執着によって、まったく違うものに見えています。

では、老いとどう付き合うか

仏教は「若さに執着するな」と言いますが、精神論では手放せません。実践的なヒントを二つ。

一つは、笑いに変えた先人に学ぶこと。仙厓さんの「老人六歌仙」は、しわ・ほくろ・曲がる腰を並べ立てて笑いにしました。直視して、笑う。目をそらすより、ずっと軽くなります。

もう一つは、老いない口座に積むこと。体力・容色・地位は、時間とともに目減りする口座です。一方、智慧・経験・信頼・行い(業)は、老いるほど残高が増える口座です。90代で舞台に立つ仲代達矢さんも、口述で研究を続けた梅棹忠夫さんも、目減りする口座から増える口座へ、人生の軸足を移した人たちでした。老いは、その引っ越しの合図なのかもしれません。

まとめ——花の色は移る。だから

花の色は移ります。移らなかった花は、一輪もありません。それを千年前に歌い切った小町の一首が、今も私たちの胸を打つ——体は老いても、行い(歌)は老いないことの、何よりの証拠です。

気持ちが17歳のままなのは、案外、悪いことではないのでしょう。その若い心で、老いない口座に、今日も一粒積んでいきましょう。

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