「他人は他人、自分は自分」に、仏教が三つの根拠を与える

「他人は他人、自分は自分」に、仏教が三つの根拠を与える 仏教

分かっているのに、比べてしまう

「他人は他人、自分は自分」。正しいと分かっています。でも、同期の昇進に胸がざわつき、SNSの誰かの旅行に沈み、きょうだいと比べられた記憶が今も疼く——分かっているのに、比べてしまうのが人間です。

精神論で「比べるのをやめよう」と言っても止まらないので、今回は理詰めでいきます。「他人は他人、自分は自分」が正しい理由を、仏教が三つの根拠で証明します。

根拠①:一見四水——そもそも同じ世界を見ていない

仏教に一見四水という教えがあります。同じ水が、天人には宝石の池に、人間には水に、餓鬼には膿に、魚には住み家に見える——同じものを見ても、見る者の状態によって、見えているものが違うという教えです。

あなたが羨んでいる「あの人の生活」は、あなたの目に映った像であって、本人が生きている実物ではありません。年収一千万の激務を天国と見る人も地獄と見る人もいる。比較の対象は、実は自分が想像で描いた絵——屏風の虎と同じです。絵と自分を比べて、勝てるわけがありません。

根拠②:業界——住んでいる世界が、そもそも別

このブログでは、六道を「自分の行い(業)が作る世界=業界」と読んできました。人はそれぞれ、自分の過去の業が作った世界に住んでいます。まいてきた種が違い、抱えている縁が違い、返ってくる果の予定表(三時業)も違う。

つまり隣の人は、文字どおり別の世界の住人なのです。畑の履歴が違う二枚の畑で、今日の収穫量だけを比べる——農家なら誰でも笑う比較を、私たちは人生でやっています。比較が成立する前提(同じ条件)が、最初から存在していないのです。

根拠③:対機説法——正解が、人ごとに違う

とどめは、お釈迦様自身の教え方です。お釈迦様は、同じ質問に対して、相手によって違う答えを説きました。怠け者には努力を、頑張りすぎる者には休息を。これを対機説法と言います。

つまり仏教の開祖自身が、「万人共通の正解」を最初から採用していないのです。あの人にとっての正しい生き方は、あなたにとっての正しい生き方ではない。処方箋は病状ごとに違う——他人の薬を飲んでも治らないどころか、体を壊します。

ただし——「比べる」と「学ぶ」は違う

ここで一つ、大事な線引きを。「他人は他人」は、他人から目を閉じることではありません。

比べるとは、他人を物差しにして自分を裁くこと。出てくるのは慢(勝った)か卑下(負けた)だけで、どちらも毒です。学ぶとは、他人の因果を観察して、良い種のまき方を取り入れること(廃悪修善の「良縁」です)。成功者の真似をするのは学び、成功者と自分を並べて落ち込むのは比較。視線の先が「相手の行い」なら学び、「自分の値打ち」なら比較——ここで見分けられます。

まとめ——自分の畑に、帰る

見ている世界が違う(一見四水)。住んでいる世界が違う(業界)。正解が違う(対機説法)。三つ揃えば結論は一つです。比較という行為は、間違っているというより、そもそも成立していない

ざわついた日は、呪文のように唱えてください。「畑が違う」。そして自分の畑に帰って、今日の一粒をまく——それだけが、唯一成立している営みです。

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