前回のあらすじ——山を下りた29歳
前回、親鸞聖人が比叡山での20年の修行の果てに「自力ではこの煩悩をどうにもできない」と絶望し、山を下りたところまで書きました。今回はその続き——日本仏教史上、最も重要な出会いの話です。
六角堂の百日、吉水の百日
山を下りた親鸞聖人は、まず京都の六角堂に百日間こもりました(百日参籠)。夜明けとともに祈り、進むべき道を求め続けた95日目、夢のお告げを得て、東山・吉水で教えを説いていた法然上人のもとへ向かった——と伝えられています。
ここからが、すごい。親鸞聖人は法然上人の草庵へ、また百日間、通い詰めました。妻の恵信尼(えしんに)さまが後年の手紙に書き残しています——「降るにも照るにも、いかなる大事にも」、雨の日も晴れの日も、どんな用事があっても、百日間欠かさず通って聞き続けた、と。
このブログで何度か触れた「仏法は聴聞に極まる」の、これが実物です。一度聞いて分かった気になるのでも、疑って背を向けるのでもなく、腑に落ちるまで聞き抜く。20年の修行で行き詰まった人が、最後に選んだ方法が「聞く」だったことは、記憶しておく価値があります。
「ただ念仏して」——何が革命だったのか
百日聞き抜いた親鸞聖人が受け取った教えは、拍子抜けするほど短いものでした。『歎異抄』の言葉で言えば——「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」。ただ念仏して、阿弥陀仏に救われていきなさい。それだけ。
これのどこが革命なのか。当時の仏教は、厳しい修行・学問・戒律をこなせる者だけの、いわばエリートの道でした。修行できない庶民、字の読めない人、猟師や漁師——彼らは救いの外に置かれていた。法然上人の教えは、その前提をひっくり返します。能力も、身分も、修行の量も、一切問わない。煩悩を消してから救うのではなく、煩悩具足のまま救う——前回書いた「波は逆巻いたまま、沈まない船」が、ここで親鸞聖人に手渡されたのです。お釈迦様が「生まれではなく行いが人を決める」とカーストを超えたように、法然上人は「修行の量」の壁を超えました。仏教の平等宣言の、第二幕です。
「だまされて地獄に落ちても、後悔しない」
この師弟の信頼を語る、日本思想史で最も有名な言葉が『歎異抄』にあります。親鸞聖人は言い切りました。
「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」——たとえ法然上人にだまされて、念仏したせいで地獄に落ちたとしても、まったく後悔しない——。
狂信でしょうか。違います。続く理由が、恐ろしく理性的なのです。「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」——どの修行も成し遂げられないこの身は、どのみち地獄が定まった住処だったのだから——。20年の修行で自分の限界を測定し尽くした人の、冷静な結論がここにあります。失うものが何もないと知り抜いた者の信頼は、賭けではなく、検証の果ての確信なのです。
流罪——そして、逆縁
しかしこの教えは「誰でも救われるなら秩序が壊れる」と既存勢力の弾圧を招きます。1207年、承元の法難。法然上人は四国へ、親鸞聖人は越後(新潟)へ流罪。師弟は生きて再び会うことはありませんでした。
ところが、です。僧籍を剥奪された親鸞聖人は「非僧非俗」——僧にあらず俗にあらず——と名乗り、雪国の民衆の中で暮らし、結婚し、子を育て、のちに関東で教えを広めます。『教行信証』が書かれたのも、その流転の中でした。流罪がなければ、教えが民衆に根づくことも、主著が生まれることもなかったかもしれない。塞翁が馬の記事で書いたとおり、最悪の縁が最大の果を運ぶことがある——弾圧さえも教えを広める縁になった、逆縁の見本です。
まとめ——聞き抜いた人だけが、言い切れる
六角堂で百日、吉水で百日。そして「だまされても後悔しない」という、聞き抜いた者だけに許される言い切り。
信じるとは、目をつぶって飛び込むことではありませんでした。納得するまで聞き、確かめ、腑に落ちた末に、身をあずけること。800年前の百日間が、それを教えてくれます。私たちも、大事なことほど——聞き抜いてから、決めましょう。

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