人として生まれた確率の話──仏教の「盲亀浮木」のたとえから学ぶこと

奇跡の確率に生きている。

「盲亀浮木(もうきふぼく)」という仏教のたとえをご存じでしょうか。

これは、私たちが人間として生まれ、仏法や人生の真理に出会い、それを実践できるということが、どれほど奇跡的なことなのかを説いた有名な話です。いまの人生がどれだけ貴重かを、改めて見つめ直す機会になるかもしれません。


盲亀と浮木のたとえとは?

お釈迦様はあるとき、弟子にこのようなたとえ話を説きました。

「広い海の底に、目の見えない盲目の亀がいる。
この亀は100年に一度だけ、海面に顔を出す。
そして海には、一本の木の丸太が浮かんでいて、中央に一つだけ穴が空いている。

この盲亀が100年に一度顔を出したときに、偶然にもその浮木の穴に首を入れることがあるだろうか?」

弟子は、「それはほとんど不可能です」と答えます。
するとお釈迦様は、こう続けました。

「その“あり得ないこと”よりもなお、人間として生まれ、仏法に出会い、正しく修行できるということは稀なことなのだ」


もしこの確率を数字にすると…

この話は寓話ですが、もし仮に数値で確率を求めたとしたらどうなるでしょうか?

  • 地球上の海の面積:約3.6億平方キロメートル(=3.6×10¹⁴㎡)

  • 浮木の穴の面積:約0.07㎡(直径30cmの穴と仮定)

  • 盲亀が浮上するのは100年に一度

  • 場所は完全にランダム

この条件で計算すると、盲亀が浮上してその穴に首を入れる確率は、およそ1.9×10⁻¹⁶(=1京9000兆分の1)

これは、宇宙の中から地球と同じ星を一発で探し当てるような確率です。
あるいは、宝くじ1等を100万年連続で当て続けるようなものとも言えます。


それでも「今ここ」にいる私たち

そんなほぼ不可能に近い確率を超えて、私たちはいま、こうして人間として生きています。
ネットにアクセスし、この文章を読み、何かを考えることができる。
この「当たり前」のようでいて、実は“当たり前じゃない”日常の背景には、仏教的に見ると無数の奇跡が重なっています。

「こんなにも希少な機会なのだから、どうかこの人生を粗末にせず、大切に生きてほしい」
それが、盲亀浮木のたとえに込められたメッセージです。


現代社会の盲亀浮木

このたとえは2500年前のものですが、現代にも通じます。
たとえばこんな例はいかがでしょうか。


【現代版たとえ】

世界中で毎秒数十億件の情報が飛び交うSNS。
その中から、あなたの心に深く刺さる、人生を変えるような言葉や思想に出会う。
しかもそのとき、あなたがそれを受け取れる心の状態である――

それはもう、まさに「盲亀浮木」です。
情報にあふれた時代だからこそ、「本当に大切なもの」に気づくことは、かえって難しくなっているのかもしれません。


今を生きるための教え

このたとえは、私たちを脅かすためのものではありません。
「人生は奇跡だ」と言い切ることで、逆に希望と感謝を呼び起こすための教えです。

今日を、今この瞬間を、丁寧に生きる。
心の奥にある違和感を見逃さない。
自分や他者の命に、少しでも優しさを持つ。

そんな日々の小さな積み重ねこそが、「奇跡の確率を生きる者」にふさわしい姿勢なのかもしれません。

自分の命を大切にしましょう。

そして、仏教を聞くことができることはもっと確率が低いことです。

人が念仏を聞く

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