なぜ生きる どう生きる というものがあるので

仏教では、「なぜ生きる」 「どう生きる」

の違いを鮮明に説明しています。個人的解釈なのでエンタメ程度に読んでください(というか他の記事も全部そうなんですが、、、)。

仏教では、「どう生きる」よりも「なぜ生きる」の方が重要視されます。

どう生きるを考えない人はいないですよね。基本になるのは衣食住です。生きること自体が大変なことです。食一つとってみても日本ではあまり餓死するという方は少ないですけど、世界を見渡せば食べられず栄養失調になって病気になり亡くなる方がいます。食べることは生きることなんて言います。では、食べるためには働かないといけません。働かざる者食うべからずなんて言葉もありますね。働くためには健康や人間関係も良好でないといけません。仕事内容によってはスキルや資格が必要になります。これらを手に入れることで生きやすくなり「どう生きる」ということです。

では、なぜ生きるとは何でしょうか。一生懸命どう生きるで手に入れて生きているのは、なぜなのか?ということがなぜ生きるということです。How手段とWhy目的ですね。なんで生きているのか、必ず死ぬのになぜ生きているのか。苦しくて頑張って生きているのか。生きなきゃいけないのか、生きる意味は何なのか?ということです。

「目的は一切の手段に優先する」「目的の軽重は手段の軽重に決する」

例:医学の目的は延命するためです。少しでも長く健康的に生きるために病気や怪我を治すことが医学の使命ということになりますが、命が尊いから育み医学はまた尊いということで医者はとよんだり看護師のことを白衣の天使と呼んだりします。ある患者が病気にかかり10年の辛い闘病の末亡くなった。最後の言葉が「こんな辛いならあの時死んどけばよかった」と言われたらアイデンティティが揺らぐ医者は多いそうです。この治療は何だったのか。命を延ばすことはできますが何のために延ばしたのかは医学書には書いていないので患者本人のWhyの問題になります。医学だけではありません。政治、経済、科学、人間の一切の営みは健やかに長く生きるためにあるということです。そうやって生かすのは何故なのかを問題提起したのがブッタです。

ここで個人的解釈に必要になってくるのは、

アインシュタインの言葉に「科学なき宗教は妄言であり、宗教なき科学は欠陥である」という言葉があります。これはどういう意味か、キーワードになるのは「科学」「宗教」の2つです。

例:農業の歴史として、まず森で食べられるものを発見しました。それを近くに持ってくることはできないか→畑などができました。初めは手で畑を耕していました。もっと楽にできないか→道具を使うようになりました。もっと楽にできないか→機械を使うようになりました。もっと楽にできないか→現代では、AI農業が進められています。これから「科学」は何を意味するのか、「力の大きさ」「論理力(因果関係)」です。力点、支点、作用点がありますよね。力点を小さくして作用点を大きくすることが科学の役目です。

一方で、「宗教」とは何か。宗教は家の中を示す教えと書きます。つまり、「方向性」です。

数学で、「力の大きさ」と「方向性」と言えば、ベクトルですよね。「科学なき宗教は妄言である」は可視化すると点のようなものですね、「宗教なき科学は欠陥である」は可視化すると四方八方に散り乱れていることになりますね。ですので、ベクトルでは片方欠けてもダメなんです。両方必要ということです。

ですので、科学が発達すれば力が大きくなるのでますます方向性というものが大事になりますね。正しい宗教というものが必要になります。が、問題はその宗教の方向性ですね。宗教は沢山あります。アインシュタインは、「仏教は近代科学と共存できる唯一の宗教である」と言っています。仏教の方向性は、智慧と慈悲、つまり論理的な優しさです。

科学を何に使うのか、どこに使うのか。

例えば、代表的な科学の使い方にドラえもんのアニメが参考になると思います。

定番の流れは、のび太くんがジャイアンにいじめられてドラえもんに泣きついて道具を出してもらって仕返しをするが結局自分も損をするというのが王道ですよね。この場合、のび太くんは道具の使い道を間違っているんですよね。本来、ドラえもんは子守ロボットです。ドラえもんの道具はのび太くんの幸せを目的に使う必要があります。ドラえもんは教えずのび太くんが自分で気づいて欲しいと願っているんですが上手くいかないきません。使い方が間違っていますよね。仏教では、復讐は一切認めません。自損損他といい、他人の不幸が自分の不幸ということです。この逆が自利利他です。のび太くんは他人の不幸ではなく他人の幸せのために道具の方向性を考えて使わなければいけなんです。そのように使っていればジャイアンもいじめたりしないんですけどね。

まとめ

なぜ生きる、どう生きるは数学で言えばベクトルのようなものです。どちらも厳かにしてはいけません。方向性を定め、後は道具であったり自分の好きなスキルなどを磨けばいいですよね。自利利他の精神を心掛けるようにすれば良いと思います。

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